備忘の都

40年間の読書で得た偏った知識をツギハギしながら、偏った記事をまとめています。同好の士の参考に。

犬神家の一族

「Yの悲劇」が横溝正史へ与えた影響とは?

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※ご注意※今回の記事は「Yの悲劇」「獄門島」のネタに触れています。未読の方はただちに画面を閉じてください。

海外ミステリの人気投票で長らく1位が指定席となっていたエラリー・クイーンの「Yの悲劇」。
筆者は実は読む前に、故人のシナリオに基づいて犯人が事件を起こす、というネタを知っていました。
中学生の頃のことで、どういった経緯でこれを知ったのか忘れてしまったのですが、その時に「それって獄門島と同じでは?」と思ったことはよく覚えています。
今回はその辺の話を書いてみます。

筆者は本編を読まずにネタを知ったので、トリックの骨格が共通していることにすぐ気づいたのですが、逆にネタを知らずにふつうに読んで、「こいつが犯人だったとは!」ときちんと驚いた経験を持つまともな読者だと、この点に気づいている方が少ないように感じています。
筆者は周囲のミステリ好きに「獄門島」と「Yの悲劇」との共通点について語って、怪訝な顔をされたことが何度かあります。(なお、筆者は横溝正史の有名作品をほとんど読み終えた頃に「Y」のネタを知り、さらに数年経ってから本編を読みました)

しかし、実はこの犯人像については、横溝正史本人も発想の原点が「Yの悲劇」であることを認めているのです。
小林信彦による、横溝正史へのインタビューを構成した「横溝正史読本」はネタバレを忌避せずにガンガンと話を突っ込んでいる好著ですが(以前にこちらの記事でも紹介)、その中に、「獄門島」の「気違いじゃが仕方がない」というネタは「Yの悲劇」の「マンドリン」を自己流でやってみたもの、という発言があります。
マンドリンというのは、故人の書いたシナリオにある「鈍器」という記述を実行犯が「楽器」と勘違いする、というものですが、「気違いじゃが仕方がない」は、やはり故人の書いたシナリオの指示に実行犯が納得していないという話です。
横溝正史はこの構図を面白がって、自作へ取り入れていたわけなのです。
「気違いじゃが仕方がない」というセリフは国内ミステリ史上、最高のセリフではないかとまで評価されているものですが、このように発想の元ネタがあるものでした。

この点以外にも、横溝正史ファンが「Yの悲劇」を読むと、いたるところに横溝正史作品を彷彿させる部分が見られ、興味深いものです。
まず、ヨーク・ハッターが簡潔な遺書をのこして自殺し、しかし、その後連続する事件にヨークの影が感じられる、という展開はモロに「悪魔が来りて笛を吹く」の椿子爵とかぶると言ってよいでしょう。
また、中盤にあるエミリー・ハッターの遺書発表シーン、それに続く一族の反応は「犬神家の一族」そのままです。(「Yの悲劇」の遺書発表シーンが物語にとって必要だったのかどうか、筆者はいまいちよくわからないのですが……)

ところで筆者は、このような点を指摘して「獄門島」をはじめとする横溝正史作品の価値を貶めたいわけではありません。
逆に、元ネタあるとわかってもなおかつ、これは偉大な業績なのです。
ミステリとは、先立つ作品からの引用、オマージュによって連綿と紡がれてきたジャンルです。「Yの悲劇」の各ポイントに注目して、それを上回るインパクトを持つ描写へ転換したことは、横溝正史の功績というべきです。

さらにいえば、当時のミステリ作家はネタの流用をあまり問題視していません。
前述の「横溝正史読本」では、「マンドリン」のくだりに続いて、実行犯のトリックはカーの諸作から発想した、という話をしています。
悪びれることなく語っていますので、横溝本人もネタの流用をまるで気にしていないことが伺われるどころか、「わたし流に訳しているんです」という発言までしています。
また、別のエッセイ集「真説金田一耕助」では、クリスティが「そして誰もいなくなった」においてマザーグースの見立てをしているのを読み、「クリスティがヴァン・ダインの真似をして許されるなら、自分もやろう」と考え、「獄門島」の俳句への見立てを考えたという話も回顧しています。(「真説金田一耕助」については、以前にこちらの記事

海外ミステリの有名作からネタをいただくのは、戦前から活躍している探偵作家にとっては「当たり前」のことだったようです。乱歩も同じようなことを多くの作品でやっています。
当時の読者は現代ほど海外ミステリに親しんでおらず、海外ミステリからのネタの流用は、当時の作家にとってはいわば「翻訳・紹介」の延長上にあったと思われます。

横溝正史はカーのファンであることは公言しており、作風にも濃厚に現れています。
一方、クイーンについてはあまり言及していないにもかかわらず、注意深く観察すると、作品の根幹にかかわる部分にはクイーンの影響が強く現れていることがわかります。
ほかにも例をあげられると面白いと思いますが、詳細に語り始めると筆者の手に余る仕事になるので、とりあえず「Yの悲劇」からの影響を指摘できたところでオシマイにします。

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「犬神家の一族」は本格か?

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週刊文春は1985年および2012年の二度にわたって「東西ミステリーベスト100」という企画を発表しています。
これはいずれも、全国の著名なミステリファンや団体へのアンケートを集計したものです。
2012年版が発表された際には、前回から27年も時が経ったにもかかわらず、事前に十分に予想されたこと(=新本格系が躍進したこと、80年代に大ブームだった冒険小説が軒並み順位を下げたこと)以外、たいして変化のない結果となり、それはそれで、驚きをもって受け止められました。

東西ミステリーベスト100
文藝春秋・編
文藝春秋
2013-11-08




ところで、筆者が2012年版のランクを見て一番驚いたことは横溝正史「犬神家の一族」がランクインしていたことです。前回は圏外だったにもかかわらず、今回は39位という結果でした。
ちなみに、横溝正史作品だけを抜き出すと、新旧で以下のとおりになっています。(順位は全体順位)

1985年版
1位 獄門島
7位 本陣殺人事件
42位 悪魔の手毬唄
44位 八つ墓村
69位 蝶々殺人事件

2012年版
1位 獄門島
10位 本陣殺人事件
39位 犬神家の一族
57位 八つ墓村
75位 悪魔の手毬唄

同じ作品が、だいたい同じような位置にいますが、目立つのはやはり「犬神家の一族」の躍進です。以前は圏外だったものが、39位とかなり上まで来ています。
(ちなみに、「蝶々殺人事件」は金田一耕助シリーズではなく、由利麟太郎シリーズの一作です。1985年当時は角川文庫版や春陽文庫版が入手可能であったものが、2012年時点では文庫では読めないマイナー作品となってしまっていたため、順位が落ちたのはやむを得ないでしょう)

「犬神家の一族」は一般的には横溝正史随一の有名作品であり、「本格探偵小説」の代表的な存在とも見なされています。なおかつ、1985年当時は空前の大ヒットとなった映画「犬神家の一族」の原作ということでも記憶も新しかったはずで、むしろ旧ベストで圏外だったことの方が不思議でしょう。

しかし、実は27年前の読者にはこれが当然のことと受け止められていました。
それはひとえに、「犬神家の一族」が本格ではなく、通俗ミステリだと見なされていたためです。

では、いったい通俗ミステリとはなにか?

それを考える前に、一般的な小説について分類を見てみましょう。
現代においても、小説は「純文学」と「大衆文学」とに分けて考えられています。
いわゆる芥川賞と直木賞との違いです。
読者のなかには両者の違いをあまり気にしない方も多くいますが、しかし芥川賞、直木賞ははっきりと区別して選考されています。
では、何を基準に区別しているのでしょう?
純文学は読者に迎合せず、芸術としての文学の可能性を探る、対して、大衆小説は読者の娯楽に供するため書かれる、というようなことがよく言われますが、実際にはもっと単純で、実質的には掲載誌で区別がされています。
「文學界」「新潮」「群像」などは、純文学。
「オール讀物」「小説新潮」「小説現代」などは、大衆小説。
同じ作家が書いても、掲載誌(もしくは編集部)の違いによって、純文学か大衆文学かが区別されているのが実情です。(なお正確に言えば、芥川賞は対象期間中の「雑誌掲載作」、直木賞は「単行本刊行作」を選考対象としています)

話をミステリに戻すと、以前はミステリの世界でも「本格」か「通俗」かは、掲載誌によって区別されていました。
戦前から続く名門「新青年」や、戦後に創刊されやがては乱歩が責任編集をつとめた「宝石」などは、探偵小説専門誌と見なされ、ここに掲載された作品は「本格」。
一方で、「キング」など、時代小説や中間小説など、他ジャンルの娯楽小説も一緒になっている雑誌へ掲載された作品は「通俗」と見なされました。

新旧ベストに現れた横溝作品の掲載誌を見てみましょう。
獄門島 → 宝石
本陣殺人事件 → 宝石
悪魔の手毬唄 → 宝石
八つ墓村 → 前半を新青年、後半を宝石
蝶々殺人事件 → ロック(これも探偵小説専門誌)
犬神家の一族 → キング

ということになります。
なお、横溝正史自身が昭和51年頃に連載されたエッセイ「真説・金田一耕助」の中で選んでいるベストは下記のとおりです。(カッコ内は掲載誌)

1 獄門島(宝石)
2 本陣殺人事件(宝石)
3 犬神家の一族(キング)
4 悪魔の手毬唄(宝石)
5 八つ墓村(新青年→宝石)
6 悪魔が来りて笛を吹く(宝石)
7 仮面舞踏会(宝石にて中絶 のちに書き下ろし)

ここまでは、横溝本人も自信を持ってベストと上げていますが、以下は、順不同で
三つ首塔(小説倶楽部)
夜歩く(大衆小説界)
女王蜂(キング)
の売れ行きが良いが、ベスト10に入れるには躊躇せざるをえない、と書いています。

ご覧のとおり、「犬神家の一族」以外、すべて掲載誌は「宝石」で、ここへ掲載することこそが探偵小説の本流であるという考えが伺われます。
現代読者からすれば「女王蜂」なども非常に横溝正史らしい長編で、探偵小説として堪能できますが、当時にあっては、これは二流の通俗小説と考えられており、それが「躊躇せざるえない」という一文に現れているわけです。

文春の新旧ベストへ話を戻すと、1985年当時、ミステリについて「宝石」は一流、「キング」は二流、という意識を持った投票者がまだまだ健在で、それが「犬神家の一族」のランク外という結果に現れています。
しかし、2012年ともなると、掲載誌を知る読者もほとんどいなくなり、本格か通俗かという意識も薄くなってきています。
それが「犬神家の一族」のランクインという形になったわけなのです。

付記しておくと、横溝正史自選ベストに「犬神家の一族」が入っていますが、決して納得ずくで入れているわけではないように思われます。
エッセイ集「真説・金田一耕助」では、これより少し前の章に「犬神家」の思い出を綴った稿があります。
この中で横溝本人も
「『宝石』とちがって『キング』は大衆雑誌なのだから、ひとつ派手にいきましょう」
「ちかごろ(この小説が)推理小説研究家のあいだで、改めて見直されているようである」
と、発表当時はマニア向けの本格ミステリとしては評価されていなかったことを暗に認めています。



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筆者:squibbon
幼稚園児の頃から40を過ぎた現在に至るまで読書が趣味。学生時代は読書系のサークルに所属し、現在も出版業界の片隅で禄を食んでいます。
好きな作家:江戸川乱歩、横溝正史、都筑道夫、泡坂妻夫、筒井康隆、山田風太郎、吉村昭。好きな音楽:筋肉少女帯、中島みゆき。好きな映画:笠原和夫、黒澤明、野村芳太郎、クエンティン・タランティーノ、ティム・バートン、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャー。
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