昭和史、特に終戦前後について書かれた本が好きでよく読んでいますが、その中で最も気に入っているのが本書『機関銃下の首相官邸』です。
タイトルの「機関銃下」というのは、二・二六事件と終戦直前の首相官邸襲撃事件とを指します。
著者の迫水久常は映画「日本のいちばん長い日」で加藤武が演じていた内閣書記官長(現在の官房長官)といえば、「ああ」とわかる方も多いでしょう。
もともと大蔵省の官僚でしたが、岳父である岡田啓介の首相秘書官として二・二六事件に遭遇します。前半はこのときの体験記。
太平洋戦争末期、日本を終戦へと導くべく鈴木貫太郎内閣が成立しますが、このときは岡田元首相の推薦で内閣書記官長として政権の舵取りを任されます。このときの奮闘を綴ったのが後半です。
本書は1964年に恒文社(ベースボールマガジン社の関連出版社)から発行されたもので、戦後20年近く経ってからの回想録であり、また出版元も歴史書専門というわけではないため、史料的価値については全面的に信用してよいものかどうかよくわかりませんが、とはいえ「昭和天皇実録」にも参考文献としてタイトルが現れており、昭和の重大事件を目撃した人物による貴重な証言であると評価して良いでしょう。
ただ、本書の価値はそこだけではありません。
読み物としてめっぽう面白いのです。
前半の二・二六事件。
迫水の活躍のメインは、岡田首相救出劇にあります。
首相官邸を襲った蹶起軍は、岡田首相と誤って、岡田の義理の弟である松尾大佐を射殺します。当時はテレビなどないため、兵士たちは首相の顔を正確には知らなかったのです。
松尾大佐はそもそも岡田首相の影武者を自任して官邸に潜り込んでいました。岡田によれば「いつも一緒に暮らしているわたしから見れば、似ているもなにもあったものではない。まるで別人だ。しいて言えば、二人とも年寄りであるということが似ているくらいのものだった。」ということだったのですが、首相官邸に老人が二人も生活しているとは兵士たちの知るところではなく、松尾大佐はまさに本望を遂げたわけです。
さて、当初は死亡したと伝えられた岡田首相でしたが、迫水のもとには実は生きているという情報が入り、蹶起軍に占拠された官邸から首相を救出する作戦が決行されることになります。
「岡田啓介回顧録」(中公文庫)にも同じ話が出てきますが、これがもう「ホンマかいな」と突っ込みたくなるような、ドタバタの頭脳プレー。
本書前半の最大の読みどころはこの一幕にあります。
後半は終戦へ至る政権内部での駆け引きが細かく描かれています。
このあたりは半藤一利「日本のいちばん長い日」(文春文庫)にも詳しく書かれている話ですが、出版された順番から考えると、半藤さんの著書もおそらくは本書の内容を参照しているものと思われます。
ここで最も興味深いエピソードは終戦の詔勅、つまり玉音放送で読み上げられた一文についてのエピソードです。
これは迫水が起草したものを安岡正篤が添削して原案としたということなのですが、「日本のいちばん長い日」でも描かれているとおり、閣議を通していくつかの訂正がなされます。
安岡正篤が特に力を込めた部分についてまで、「言葉が難しい」という理由で改変されてしまい、迫水は戦後になってから安岡に嫌味を言われたという話を書いています。
また、両事件ともに共通するのは著者の能吏ぶりです。
戦争中とはいえ、法治国家。行政は全て法律に基づく手続きを踏んで行われます。
しかし、バカ正直に手続きにこだわっていては非常事態に対応できない。
この「本来の手続き」と「非常事態」とを、トリックプレーといってよい奇抜な手法で切り抜けていくさまは読み物として抜群の面白さです。
政権がドタバタしている表側では、「無辜を殺傷」「非命に斃れたる」という状況が続いていたわけで、その方面への思いやりが欠けている批判も本書に対して見かけることもあります。
とはいえ、日本存亡の危機にあたって、著者はその職域で力の限り奮闘を続けていたわけであり、他の戦記では見られないエピソードは昭和史ファンにはやはり興味深いものです。