201806昭和の翻訳出版228

今年度の日本推理作家協会賞 評論・研究部門を宮田昇『昭和の翻訳出版事件簿』(創元社)が受賞しました。

著者の宮田昇氏は御年90歳。早川書房で翻訳出版に携わった後、翻訳エージェントとして長年活動し、これまでにも翻訳史に触れた著書がいくつかあります。一方で、内田庶名義で児童向けの翻訳も多数刊行してきました。

この著者の本は以前に『戦後「翻訳」風雲録』(2000年・本の雑誌社)を読んだことがあります。今は、みすず書房から『新編戦後翻訳風雲録』として再刊されています。



これは、主に早川書房時代に関わった翻訳家たちのエピソードをあれこれ綴ったもので、登場するのは田村隆一、高橋豊、宇野利泰、清水俊二など、海外ミステリ好きにはお馴染みの名前ばかりです。
翻訳家は名前だけはよく見ますが、小説家と違ってその人となりはなかなかわかりません。奇人揃いのハチャメチャと言ってよいエピソードがぞろぞろ出てきて、「本の雑誌」連載中から愛読していました。
おそらく今回の日本推理作家協会受賞はこの「戦後翻訳風雲録」がミステリ好きのあいだで読まれてきたことがきっかけになっているでしょう。

さて、昨年発行された『昭和の翻訳出版事件簿』ですが、筆者は読もうかどうしようか迷いつつ、結局そのままスルーしていたところ、協会賞受賞と聞いて慌てて買ってきて読みました。
おお、これは面白い!

今年は「評論・研究部門」というタイトルでしたが、推理作家協会賞の評論その他の部門は、必ずしも「評論」が受賞しているわけではありません。
ミステリとは全く関係ないのに、「面白いから」というだけの理由で受賞してしまうことがよくあります。過去には瀬島龍三の評伝『沈黙のファイル』や、美術評論である『ゴッホの遺言』なんて本が受賞したこともあります。
その一方で、ミステリの研究書として価値の高い作品が順当に受賞することもあるのですが、今回の『昭和の翻訳出版事件簿』はその両方の意味合いで受賞したものと思われ、協会賞の面目躍如と言えます。(近年では他に栗原裕一郎 『〈盗作〉の文学史』も同じような印象を持ちました)

言及される作品はミステリもありますが、大半は純文学や児童文学です。
しかし、話が非常に面白い。
よく知られていますが、海外文学の翻訳にはかつて「十年留保」というルールがありました。これは簡単に言うと「原著の発行から10年以内に日本語訳が発行されなければ、その作品は翻訳権がフリーになる」というもので、現在は廃止されているのですが、いったん翻訳権がフリーになると基本的に復活することはないため、例えばカーやクリスティのように著作権保護期間にある作家であっても、作品によっては自由に翻訳できる作品があったりします。
筆者はこのルールをいたってシンプルに認識していたのですが、実はこれが非常に奥深い。
本書のほとんどはこの「十年留保」や「日米間翻訳自由」の条約を巡って起きたトラブルを紹介したものなのですが、ミステリ的な謎解きやどんでん返しに満ちています。

例えば。
クリスティの作品には翻訳権が消滅している(=誰でも自由に翻訳出版できる)作品がいくつかあります。要するに早川書房以外の出版社からも出ている作品、「アクロイド殺し」や「ABC殺人事件」などは「十年留保」の規定によって翻訳権がフリーになっています。このため、どこの出版社でも翻訳を出せるのです。
「オリエント急行の殺人」も昭和20年代に早川書房が発行して以来、そのような作品の一つと考えられてきたのですが、実は平成15年にもなってからクリスティの著作権を管理する団体から「著作権侵害」ということで、「オリエント急行」を発行している各出版社が抗議を受けたというのです。
調べてみると、事情がわからないものの早川書房が最初に翻訳した時点で実は翻訳権は存続しており、早川はそれに気づかず(?)無断で発行してしまっていたのでした。早川書房は謝罪し、改めて契約を結びます。
そのうえで、他の出版社に対しては即時絶版・在庫破棄を求める通知が来たため、ある出版社が宮田氏へ相談を持ちかけたのだそうです。
そのときの氏のアドバイスは「早川書房が最初の翻訳のときに正式な契約を結んだかどうか確認しろ」というもの。
つまり、最初の翻訳のときに許諾を得ていないのであれば、単に海賊版が発行されたというだけの話で、翻訳権を得ているわけではないから、その後、十年留保によって翻訳権は消滅している、という理屈。
とんでもない屁理屈!と思ってしまいますが、その後、各社とも特に絶版せずに刊行を続けているので、どうやらこの論法が功を奏したようなのです。

というような、他にも「カナダとの同時刊行」だとか「イラストの複製権」だとか「翻訳はいいけど翻案は駄目」だとか「戦時加算」だとか、とにかく複雑な要素が様々に絡み合うまさに「事件簿」があれこれ紹介されますが、「ユリシーズ」「くまのプーさん」「シートン動物記」と、馴染みの深い作品ばかりが登場するため、なるほどなるほど、と興味深く最後まで一気読みでした。

海外文学が好きな方はもちろんですが、単純に面白いノンフィクション、エッセイを読みたいと思っている方にもおすすめできる本です。

昭和の翻訳出版事件簿
宮田 昇
創元社
2017-08-03