乱歩のデビュー作「二銭銅貨」に登場する二銭銅貨には、ある細工が施されています。
作中では、その細工というのは、以下のように記述されています。(青空文庫より)
「俺は、昨日君が湯へ行った後で、あの二銭銅貨を弄んでいる内に、妙なことには、銅貨のまわりに一本の筋がついているのを発見したんだ。こいつはおかしいと思って、調べて居ると、なんと驚いたことには、あの銅貨が二つに割れたんだ。見給えこれだ」
彼は、机の抽斗から、その二銭銅貨を取出して、丁度、宝丹の容器を開ける様に、ネジを廻しながら、上下に開いた。
「これ、ね、中が空虚になっている。銅貨で作った何かの容器なんだ。なんと精巧な細工じゃないか、一寸見たんじゃ、普通の二銭銅貨とちっとも変りがないからね。これを見て、俺は思当ったことがあるんだ。俺はいつか、牢破りの名人が用いるという、鋸の話を聞いたことがある。それは、懐中時計のゼンマイに歯をつけた、小人島の帯鋸見た様なものを、二枚の銅貨を擦り減らして作った容器の中へ入れたもので、これさえあれば、どんな厳重な牢屋の鉄の棒でも、何なく切破って脱牢するんだ相だ。なんでも元は外国の泥坊から伝ったものだ相だがね。そこで、俺は、この二銭銅貨も、そうした泥坊の手から、どうかして紛れ出したものだろうと想像したんだ。だが、妙なことはそればかりじゃなかった。というのは、俺の好奇心を、二銭銅貨そのものよりも、もっと挑発した所の、一枚の紙切がその中から出て来たんだ。それはこれだ」
実は、この仕掛けには元ネタがあります。
乱歩関係の評論などを読んでいても、この点に言及されているのを見たことがなかったため、元ネタがあったとは全く知らず、たまたま出くわしたときには非常に驚きました。
その元ネタというのは、日本では「ああ無情」のタイトルで知られるビクトル・ユーゴーの代表作「レ・ミゼラブル」です。
この作品の第三部「マリユス」第八編「邪悪なる貧民」第二十章「待ち伏せ」に以下のような記述があります。(豊島与志雄訳・青空文庫より)
ゴルボー屋敷におけるこの待ち伏せの後に間もなく行なわれた裁判所の調査によれば、二つに切り割って特殊な細工を施した大きな一スー銅貨が、臨検の警官によってそのご覧のとおり、ここに出てくる「一スー銅貨」には、乱歩の「二銭銅貨」と全く同じ細工が施してあります。屋根部屋 の中に見い出されたのだった。その大きな銅貨は、徒刑場の気長い仕事によって暗黒な用途のために暗黒の中で作り出される驚くべき手工品の一つであり、破獄の道具にほかならない驚くべき品物の一つだった。異常な技術に成ったそれらの恐るべき微妙な作品が宝石細工に対する関係は、あたかも怪しい隠語の比喩 が詩に対する関係と同じである。言語のうちにヴィヨンのごとき詩人らがあると同じく、徒刑場のうちにはベンヴェヌート・チェリーニのごとき金工らがおる。自由にあこがれてる不幸な囚人は、時とすると別に道具がなくても、包丁や古ナイフなどで、二枚の薄い片に一スー銅貨を切り割り、貨幣の面には少しも疵 がつかないように両片をくりぬき、その縁に螺旋条 をつけて、また両片がうまく合わさるようにこしらえることがある。それは自由にねじ合わせたりねじあけたりできるもので、一つの箱となっている。箱の中には時計の撥条 が隠されている。そしてその撥条をうまく加工すると、大きな鎖でも鉄の格子 でも切ることができる。その不幸な囚徒はただ一スー銅貨しか持っていないように思われるが、実は自由を所有してるのである。ところで、後に警察の方で捜索をした時、その部屋 の窓に近い寝台の下で見いだされた、二つの片に開かれてる大きな一スー銅貨は、そういう種類のものであった。
そして、乱歩と「レ・ミゼラブル」といえば、当然連想されるのは、黒岩涙香による翻案「噫無情」です。涙香は、該当箇所をどのように訳したでしょうか。九十九章「陥穽 七」に以下の記述があります。(はる書房『噫無情』後篇より)
縄を切るのは、特別に其の術が有るのだ、是れは多年牢屋の中に居て、 囚人の學問を卒業した人で無くては知らぬ、白翁が繩を切たは、 其の術を心得て居たに違ひ無い、其の次第は後で分つた、 此のち警察で取調べたとき、此家の番人が警察署へ一の參考品を差出した、其れは此室に落て居たと云ふので、一個の二錢銅貨である、銅貨の中へ、繩でも木でも或は鐵をでも切る鋭い刄物を隱すのが、囚人の術なんだ。ビンゴ!というわけで、「二銭銅貨」が出てきました。乱歩はこの記述を参考にしたものと思われます。「牢破りの名人」「時計のゼンマイ」というキーワードが全てに共通し、また、涙香が「薬入れ」と書き、乱歩が「宝丹の容器」と書いている点でも、間違いないでしょう。
見た所は一枚の銅貨だけれど、實は二枚を合せた者だ、一枚は其の裏を摺り減し、一枚は其の表を摺り減し、二枚ともに半枚の薄さと爲して之を合せて丁度一枚の銅貨が出來る、其の合せ目は、上の一枚を雄旋とし下の一枚を雌旋として、容易に開ぬ樣に堅密に旋合せて有る、凡そ世に是れほど精巧な細工は少い、けれど長く牢に居る囚人の中には此細工を覺える者が隨分ある、爾して上の一枚と下の一枚との間を抉り、空虚と爲して其の所へ時計の發條を入れて有る、云はゞ銅貨の錫を藥入れの樣に作り其の中へ凶器を隱すのだ、時計の發條が凶器なんだ、昔しから囚人の中には、針一本あれば歐羅巴の何の樣な獄をでも破ると斷言した程の者も有る、時計の發條は鍛へ抜た鐵だから、之に刄はを附ければ、刄物にも鋸にも鑢にも代用が出來る、場合に依りては人を殺すことも出來ぬとは限らぬ、老巧な囚人に取ては凶器の上の凶器なんだ。
ここまで同じ表現をしているということは、乱歩には引用元を隠す意図はなかったのではないかとも思われます。
ちなみに実際に流通していた2銭銅貨は、発行時期は明治6年から明治17年と短かったものの、昭和28年まで通貨として使用できたものであり、涙香も乱歩も同じ銅貨を指しています。
「二銭銅貨」も「レ・ミゼラブル」も「噫無情」も、いずれも非常に有名な作品なのに、誰も気づいていないのか、あるいは実際にはよく知られていることなのか、いずれにしてもほとんど語られていないのが不思議なのですが、ここでご紹介しておきたいと思います。