備忘の都

40年間の読書で得た偏った知識をツギハギしながら、偏った記事をまとめています。同好の士の参考に。

ノンフィクション

弩級の奇書「冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」(管賀江留郎・ハヤカワ文庫)

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2016年に洋泉社から刊行された「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか―冤罪、虐殺、正しい心」が改題され、ハヤカワ文庫ノンフィクションに収録されました。
単行本が出た際にもかなり評判になっているのことは知っており、書店で何度か手には取っていたのですが、タイトルからいまいち内容を想像できず、重量級の雰囲気に恐れをなしたこともあって見送っていました。

このたび文庫化されたということで改めて手に取ってみると、装丁からして「タダモノでない」というオーラが漂っており(まあそれは単行本のときもそうだったのですが)、また内容についても興味を持てそうなものであると確認できたため、買ってきました。
 
いや、これはとんでもない本ですね。
文庫版のあとがきで著者は「そもそも、本書は『白鯨』や『黒死館殺人事件』の如き文学作品のつもりで執筆しました。」と記していますが、まさに!
個人的な事情ですが、「白鯨」について以前に下記の記事でこれがいかにとんでもない「奇書」であるかを紹介し、なおかつそこで「黒死館殺人事件」と比較していたということがあるため、本書のあとがきを読みながら、「うんうんうん」と、強くうなづいてしまいました。

「白鯨」を読破するなら、おすすめの文庫はどれ?

裏表紙に記載の内容紹介を見ると以下の通りとなっています。
18歳の少年が死刑判決を受けたのち逆転無罪となった〈二俣事件〉をはじめ、戦後の静岡で続発した冤罪事件。その元凶が、“拷問王”紅林麻雄である。検事総長賞に輝いた名刑事はなぜ、証拠の捏造や自白の強要を繰り返したのか? アダム・スミスからベイズ統計学、進化心理学まで走査し辿りついたのは、〈道徳感情〉の恐るべき逆説だった! 事実を凝視することで昭和史=人類史を書き換え、人間本性を抉る怪著。
ということで、一見、冤罪事件を取材したノンフィクションと思われますが、実はそれは全く入り口に過ぎません。
あまりに情報量が多すぎて、一回読んだだけでは頭の中で内容を全然整理できないのですが、事件に関わる人物の一人ひとりについて、常軌を逸した熱量で文献を渉猟していきます。
この結果、内容紹介にある通り「昭和史=人類史を書き換え、人間本性を抉る」という次元にまで到達してしまうのですが、正直なところ、脇道に入り込みすぎて、何を読んでいるのか途中でワケがわからなくなってくることもしばしばです。
これぞまさに「白鯨」や「黒死館殺人事件」の世界。

ただし、これは書き方を真似たというわけではなく、「『白鯨』のような例があるから、こういう書き方でも許される(あるいは、読者がついてこられる)だろう」という精神的な拠り所になっていたということかな、と思われました。
というのは、著者がこれだけ細部に執着するのには理由があり、世の中にあふれる以下のような本、すなわち、一次資料に当たらず受け売りで書かれた本、事象に関連性を見出し物語として図式的理解に落とし込んでしまう本といったものは、冤罪事件と本質的に同根の人間の本性から生み出されている、と本文中でしきりに繰り返しているのです。
このような批判を展開しているからには、本書自体は必然的に百科全書的な書き方にならざるを得なかったわけです。

ともかく、中途半端な文字数で書評など書けない、超弩級の内容でした。
みすず書房あたりが、何千円という価格で何十年も版を重ねているような古典的名著と比較しても全く劣らない、現代の名著です。


松原隆一郎「頼介伝」(苦楽堂)で神戸の歴史を知る

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本書は、大正末期から昭和にかけて神戸で活動した起業家・松原頼介の評伝です。
……と紹介すると、ほとんどの方は「そんな人、知らない」ということで全く興味がわかないと思いますので、急いで書いておきます。本書は以下のような方には間違いなくおすすめです。

・神戸の歴史に関心がある。
・面白いノンフィクションを読みたい。
・著者の旧著「書庫を建てる」を読んで、著者の祖父・松原頼介に興味を持った。あるいは、本の雑誌社「絶景本棚」に掲載された著者の書庫に据えられた仏壇が気になっていた。

さて、ひとつずつご説明する前に、筆者がなぜこのような無名の起業家について書かれた本を購入したのかを書いておきます。

著者の松原隆一郎氏は経済学の先生です。経済学と全く縁のない人生を送ってきた筆者は、白状すれば著者が本業で書かれた本を一冊も読んだことがないのですが、4年ほど前に新潮社から出た「書庫を建てる」はとても興味深い本でした。
1万冊の蔵書と祖父の仏壇を収納するために建築家・堀部安嗣氏に設計を依頼して書庫を建てる。
螺旋状に塔のような本棚が組まれ、その中央に仏壇が据えられた写真が強烈な印象を残す本で、本好きなら間違いなく楽しめる本です。



この書庫建設にかかる費用はは祖父が残した遺産を活用して賄ったということで、冒頭2章を費やして祖父・頼介および松原家の来歴が語られます。
あらためて白状すると、筆者はこの本を読んだとき、その部分はサラッと眺めただけで読み飛ばしていました。興味があったのは「書庫を建てる」部分だけで、いったいなんでお祖父さんの話を延々読まなければいけないのか、よくわからなかったためです。

したがって、今回の「頼介伝」が刊行されたときも、「書庫を建てる」の著者、ということはもちろんすぐにわかりますが、そこで語られていた祖父、つまりの仏壇に祀られた本人の話だとは、まるで気づきませんでした。
にもかかわらず購入したのは、装丁とタイトルが異常にかっこよかったから。
本好きの方ならわかると思いますが、やはり面白い本というのは装丁とタイトルがかっこいいんですよ。「これは間違いないな」ということがビンビンと伝わってくる表紙です。
よく見れば、この表紙に使われている写真は「書庫を建てる」にも掲載されていたものですが、それには気づかず買ってきました。

そして表紙以外にも、もう一つのポイント。それは神戸関連本だということ。
筆者は結婚して子どもも生まれてから神戸へ移り住んだため、神戸市民でありながら街の地理・歴史・文化に全く疎い状態で暮らしています。(もともと関西人ですらないので)
そんなわけで、神戸について書かれた面白そうな本を見かけるとちょこちょこと読んでいるのですが、本書はその点でとても満足できる内容でした。

神戸というと、六甲山麓に広がる高級住宅街の印象が強くありますが、その一方には兵庫・長田周辺の工業地域やその周辺の下町があります。
当ブログをご覧いただけばおわかりのとおり、筆者は横溝正史の熱狂的なファンですが、横溝の生誕地は川崎造船所前の東川崎で、自伝的エッセイを読んでいると、山手とは全く雰囲気の異なる、荒くれ者が多い土地柄だったことがわかります。
そして、「頼介伝」の主人公・松原頼介が最初に起業したのも、東川崎に隣接した東出町でした。
しかも、その時期にはまだ横溝は上京しておらず、目と鼻の先で暮らしていたというわけです。
それだけではありません。やはり隣接した西出町で山口組初代が組を結成したのもほぼ同じ頃。さらには少年だった中内功や東山魁夷までが、同時期にこの狭い地域のなかにいたということなのです。
いったいこれはナニゴトなのか。
「頼介伝」では、港町神戸の発展、工業地帯の成長とそれに伴う爆発的な人口の増加、湊川の付け替えに伴って出現した新開地の繁栄などが、横溝正史のエッセイ、山口組の出現などを絡めながら詳細に語られます。
これまで横溝正史のエッセイを読んでいても、いまいち情景がわからなかった筆者にとっては、この地域の異常な発展ぶりがよくわかったというだけでも読んで良かった、と思えるものでした。

話がそれますが、東川崎や東出町周辺は、一度だけ散策したことがあります。
横溝正史生誕地であることを示す碑が立っていますが、目的はそれではなく、数年前、神戸市営地下鉄が実施していたスタンプラリーに、当時幼稚園児だった息子と一緒に参加したことがあるのです。
ポイントの一つが稲荷市場を抜けた松尾稲荷神社境内に設置されていました。
このとき、初めて稲荷市場に足を踏み入れたのですが、日曜の昼間というのに周囲にはほとんど人影はなく(正確に言えば、ほかのスタンプラリー参加者はちらほら見かけました……)、アーケードのある商店街はシャッターがおりているどころか、あちこちが歯抜けのように更地になっており、20年も昔の「祝・オリックス優勝」の横断幕が掲げられたままになっていました。
恐るべき寂れっぷりで、息子も「なんだか気味の悪いところだなあ」とつぶやきながら歩いていましたが、帰宅後に調べると、阪神大震災で受けたダメージからそのまま立ち直れないままだったのだということを知りました。
このアーケードは最近になって撤去され、ようやく再開発が始まったようですが、あの場所が本書冒頭の舞台地であり、横溝正史の故郷でもある活気のある街だったというのは信じられない思いです。

話を戻しますと、松原頼介はこの地域で最初の旗揚げをし、それが成功すると住吉川沿いに居を移します。
今度は一転して、神戸の中でも超のつく高級住宅街です。近所には谷崎潤一郎が住み、この地を舞台に「細雪」を執筆していました。一家の生活も、まさに「細雪」で、阪神間モダニズムを満喫するわけです。
ここでも、著者は阪神間の住宅街発展の歴史を詳細に綴ります。これまた、そのあたりに疎い筆者には非常に興味深い内容でした。
神戸という街の近代史は、本書一冊でおおよそ語り尽くされているといって良いでしょう。

さて、では主人公・頼介はいったい何の事業をしていたのか。防水シートの製造や海運、鉄鋼業と時期によって事業の内容はいくつか変わるのですが、これが見事なまでに大正末期から昭和にかけての日本近現代史とリンクしているのです。
満洲の開発、敗戦、戦後の朝鮮戦争特需、そして高度経済成長期。
ここは経済学者の本領発揮で、細かいデータを交えながら時代背景をおさらいしてもらえます。
さらには、事業の浮沈がいちいちそれらと関連して語られており、読み物としてもよくできています。

読み物として面白い、といえばノンフィクションとして読んでも秀逸です。
松原頼介という人物の来歴を詳細に知りたいという欲求がない読者でも、祖父にかんするありとあらゆる情報を手に入れたいという著者の情熱には注目せざるを得ません。
関係者を尋ね回り、残された記録を丹念にたどる中で、次々と新たな発見がされていきます。この辺、筆者としては探偵小説的な面白さというより、「探偵ナイトスクープ」的な興奮を感じました。

本書を読み終わってから、改めて「書庫を建てる」を読み返すと、以前は余分だと思っていた冒頭2章が、実はとても重要だったことがわかります。新築書庫の真ん中に仏壇を置いてしまうくらいに。

というわけで、冒頭にも書いたとおり
・神戸の歴史に関心がある。
・面白いノンフィクションを読みたい。
・著者の旧著「書庫を建てる」を読んで、著者の祖父・松原頼介に興味を持った。あるいは、本の雑誌社「絶景本棚」に掲載された著者の書庫に据えられた仏壇が気になっていた。
という方には、おすすめの一冊です。


 

「安藤忠雄」を読む

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今年2017年9月から12月にかけて、東京六本木の国立新美術館で「安藤忠雄展―挑戦―」が開催されているため、建築家・安藤忠雄に改めて注目が集まり、関連本が次々刊行されています。
一般向けに書かれた建築の本は、写真集や建築家のエッセイなど、かなりたくさん出ており、書店での人気分野の一つと言ってよいかと思いますが、その中でも安藤忠雄の関連本は突出した売れ方をしています。例えば日経新聞に連載された「私の履歴書」をまとめた『仕事をつくる』は、その年に日本経済新聞出版社が刊行した本の中ではベストセラートップでした。
筆者も建築物には特に興味はないにもかかわらず、建築関係の本はいろいろ読んでいるのですが、やはり安藤忠雄関係の本は面白いと思います。

魅力は2つあります。
本人の破天荒なキャラと、天才の仕事ぶり。
その辺を堪能できる本を3冊ご紹介します。

『光の教会 安藤忠雄の現場』

光の教会―安藤忠雄の現場
平松 剛
建築資料研究社



筆者が初めて読んだ安藤忠雄関連の本なのですが、これは本当に面白いです。
大阪・茨木の住宅街にある教会を作った時の話をノンフィクションに仕立てており、著者の平松剛は本書で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
光の教会は安藤忠雄の代名詞ともいうべき建築物なのですが、そもそもは、そんなだいそれたものを目指して発注されたわけではありません。単に町の教会に新しい教会堂を建てたい、というだけの話でした。小さな教会なので、お金もありません。
ところが、依頼を受けた安藤センセイはノリにノッてしまい、施主の意向にお構いなく、どんどん我が道を進んでいきます。
しかも天才なので常人には及ばぬ発想をします。
「屋根がなくても教会はなりたつだろう」
と施主へ迫ったりなど、ぶっ飛んだエピソードが次々紹介されます。
この一冊で、安藤忠雄を知るには十分です。

『建築家安藤忠雄』

建築家 安藤忠雄
安藤 忠雄
新潮社



本書は安藤忠雄の自伝です。
はた目には、『光の教会』に描かれているようなぶっ飛んだ発想を次々実現させる豪腕建築家ですが、果たして本人はどのような思考でそんな行動を取っているのか?
そこには、文化や自然、人間に対する深い洞察があります。
建築物を見てもピンと来ない筆者のような人間にも、安藤忠雄の天才ぶりがよく理解できます。

『仕事をつくる』

安藤忠雄 仕事をつくる―私の履歴書
安藤 忠雄
日本経済新聞出版社



日経新聞から発行されているため、ビジネス書っぽいタイトルになっていますが、冒頭にもご紹介したとおり、「私の履歴書」をまとめた自伝エッセイです。
上記2冊に比べるとかなり読みやすいため、安藤忠雄関連本の入門にうってつけです。

さて、今回の六本木での展覧会にあわせ、新刊もいくつか出ています。



別冊太陽なので、ビジュアルをふんだんに使い、安藤忠雄の代表的建築、これまでの人生を振り返る内容になっています。



15000円もする巨大な本ですが、これまでの全建築物についての記録と評論が収録されています。
安藤忠雄の全貌を手元に置いておきたいという方向けの本です。(筆者は買っていませんが……)


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筆者:squibbon
幼稚園児の頃から40を過ぎた現在に至るまで読書が趣味。学生時代は読書系のサークルに所属し、現在も出版業界の片隅で禄を食んでいます。
好きな作家:江戸川乱歩、横溝正史、都筑道夫、泡坂妻夫、筒井康隆、山田風太郎、吉村昭。好きな音楽:筋肉少女帯、中島みゆき。好きな映画:笠原和夫、黒澤明、野村芳太郎、クエンティン・タランティーノ、ティム・バートン、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャー。
ブログ更新通知:https://twitter.com/squibbon19

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