備忘の都

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名作翻訳比較

「三国志」を読むなら、おすすめの文庫はどれ?

小説・漫画・映画・ゲームなど、日本でも様々な形で親しまれている三国志。
しかし、「三国志」というタイトルの本は書店にあふれており、原作に挑戦してみようと思ったとき、どれを手にとってよいのか迷うこともあるかと思います。
「三国志」にはどのような本があるか、代表的なものをご紹介します。

【正史三国志】

まず、そもそも「三国志」とは、紀元3世紀末頃に成立したとされる歴史書で、紀元2世紀末から3世紀初頭に掛けての「三国時代」と呼ばれた時代を扱っています。(ちなみに卑弥呼に言及していることで有名な「魏志倭人伝」はこの「三国志」の一部です)
古い歴史書なので、ぶっちゃけた言い方をすれば、一般の読者が手にとるようなものではないのですが、三国志ファンが多いためか、ちくま学芸文庫から全訳が刊行されています。


【三国志演義】

さて、日本で「三国志」というと、一般的には中国の明代(14世紀から17世紀頃。日本の室町時代あたり)に成立した「三国志演義」のことを指します。正史である「三国志」は前述の通り一般読者を対象とはしていないため、内容は事実の羅列であり、物語の形になっていません。この歴史書が扱った時代の史実に伝説や創作を交えたものが「三国志演義」です。作者ははっきりしておらず、羅貫中とされることが多いのですが、定説ではありません。
現在は、文庫では岩波文庫と講談社学術文庫、および角川ソフィア文庫から翻訳が出ています。
いずれの訳で読むべきか?
岩波文庫版が定番となっており、名訳とされていますが、かなり古い訳で、読みづらい部分もあります。
角川ソフィア文庫版は、80年代にNHKでテレビ放映された「人形劇 三国志」の原作ともなった立間祥介の訳です。岩波文庫版よりは遥かに読みやすい文章です。
講談社学術文庫版は、訳が新しく、さらさらと読めます。加えて、巻末に各巻の読みどころがまとめられているため、長い物語のなかで迷子になっても、すぐにあらすじを確認できるのが便利です。
岩波文庫版8冊に対して、角川ソフィア文庫版・講談社学術文庫版は4冊ですが、角川・講談社は一冊ずつが分厚いので、いずれも同じ程度のページ数です。
岩波文庫は江戸時代に日本で初めて刊行された「三国志演義」の翻訳である「繪本通俗三國志」の挿絵を収録しています。対して講談社学術文庫版はおおよそ同じ時期の中国の刊本から挿絵を取っており、このへんでも好みが分かれそうです。角川ソフィア文庫版には挿絵はありません。
価格は岩波文庫版・角川ソフィア文庫版が6300円程度と同じような価格ですが、講談社学術文庫版は揃えると8000円近くになり、少々高めです。
個人的には、「読みやすい」「解説がある」「挿絵がある」と三拍子そろった講談社学術文庫版がおすすめですが、安いほうがよいという方は、角川ソフィア文庫版でも全く間違いはありません。

【日本人の書いた三国志】

「三国志演義」あるいは「正史三国志」をもとに、日本人が書いた歴史小説もいくつかあります。
最も有名なのは吉川英治の「三国志」でしょう。ちょうど日中戦争の時期に執筆されたもので、現代の日本では「三国志演義」の翻訳を読んだ人より、吉川英治を読んだ人のほうが圧倒的に多いと思われます。
これは「三国志演義」をベースに、吉川英治独自の創作も加え、日本人に読みやすいよう書き改めたものです。
あちこちの出版社から文庫が出ていますが、講談社から出ている吉川英治歴史時代文庫版が最もスタンダードです。(全8巻)



近年では、北方謙三の「三国志」がよく読まれています。こちらは「正史三国志」をベースにしているということですが、北方謙三流の男らしい物語に仕立てられています。

文庫版三国志完結記念セット(全14巻)
北方 謙三
角川春樹事務所
2002-12-01


関連記事:
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「レ・ミゼラブル」原作を読むなら、おすすめの文庫はどれ? 各社版徹底比較!

日本では「ああ無情」のタイトルで知られ、子ども向けの名作全集などには必ず収録されるユゴーの「レ・ミゼラブル」。完訳に挑戦しようと思うと、何種類かの文庫が出ており、どれを手に取ろうか迷われるのではないでしょうか。それぞれの訳の特色をまとめてみます。

「レ・ミゼラブル」はフランスの小説家ヴィクトル・ユゴーが19世紀半ばに執筆した大長編です。
貧しさのあまりパンを盗んだジャン・バルジャンが、ミリエル神父との出会いで改心して……と、子ども向けの抄訳などではこの辺のヒューマニズムの部分のみが強調されていたりしますが、全て読んでみると、サスペンスあり、アクションありのエンタテインメントで、退屈することなく読み切ることができます。ただし、一部を除いては。
「一部を除いて」というのは、これは「ノートル=ダム・ド・パリ」など、他の小説にも見られるユゴーの悪癖で、本筋と関係のない歴史や風俗について延々と語り続けている部分があるのです。
例えば、主要登場人物2人が出会うのがワーテルローの戦いのさなかなのですが、それだけのことを書くために、ユゴーが古戦跡を訪れて抱いた感慨から始まり、おもむろに百ページくらい費やして戦いの詳細を綴っていきます。読んでいると、明らかに伏線でもなんでもなく、本筋と全く関係ないことがわかります。
ストーリーを求める読者には退屈極まる部分ですが、しかしユゴーは「これは物語の作者の権利である」と傲然と言い放つのです。
全5部からなりますが、各部の冒頭にこのような文章が入っています。筆者は、この辺はすっ飛ばして読みました。

というわけで、現在入手可能な文庫についてご紹介していきましょう。

岩波文庫版 豊島与志雄・訳


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岩波文庫からは豊島与志雄訳が全4冊で刊行されています。
名訳として読み継がれている豊島訳ですが、最初に刊行されたのは大正期で、さすがに文体の古さは否定できません。(とはいえ、同時代に刊行された他の翻訳家による海外文学と比べれば、圧倒的に読みやすいのですが)
どれくらい古いか?ということを読んでみたければ、実は豊島訳の「レ・ミゼラブル」はまるまる青空文庫にも収録されています。豊島与志雄が亡くなったのがもう60年以上も前なので、訳文の著作権が切れているのです。
というわけで、敢えて豊島訳を読みたい、ということでなければ他の文庫をおすすめしますが、一つ、岩波文庫版には他にない大きな長所があります。それは、挿絵を全て収録していることです。
ミュージカルのポスターにも使用されている少女コゼットのイラストなど、「レ・ミゼラブル」の挿絵は有名であり、作品理解の助けにもなりますが、他の文庫では収録されていません。
ついでに言うと、全巻揃えて最もお安いのも岩波文庫版です。

新潮文庫版 佐藤朔・訳


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新潮文庫版は佐藤朔の訳で全5冊で出ています。
かなり昔から刊行されており、日本では最もよく読まれているスタンダードな訳と言えるでしょう。
ただし、初訳は50年以上前であり、岩波文庫版よりははるかに新しいものの、新訳というわけではありません。また、挿絵もありません。
手に入りやすく、価格も手頃で読みやすい、定番のバージョンです。

ちくま文庫版→平凡社ライブラリー 西永良成・訳



ちくま文庫版は最も新しい訳で、2012年から2014年にかけて全5冊で刊行されました。
筆者はこれで読んだのですが、なぜ完結までに足掛け2年もかかったのか? 事情は特に明らかにされていないのですが、おそらくは訳者の体調不良か何かで、4巻と5巻とのあいだが1年も空いてしまったのです。
順調にスイスイ読んでいた筆者には、この1年は長いものでした。新訳に手を出さず、新潮文庫で読めば良かった、と思ったものです。とはいえ、無事に完結してくれたのでホッとしました。
さすがに最新訳だけあって、文体も読みやすく、注釈も適切に挿入されており、おすすめできます。
難点は、他の文庫に比べてずいぶんとお高いという点ですが、そもそも高価格で有名な、ちくま文庫のファンである筆者にとっては、そこはあまり問題になりませんでした。
岩波文庫に代わる定訳となるかと思っていたものの、残念ながら、あっという間に品切れになってしまっていたのですが、平凡社ライブラリーへ収録されることになったようです。2019年12月より順次刊行されます。1巻目は本体価格1600円ということでやや高めですが、文庫よりもしっかりした造本で、永く書棚を飾るのにふさわしい本になると思います。

角川文庫版 永山 篤一 ・訳

レ・ミゼラブル (上) (角川文庫)
レ・ミゼラブル (下) (角川文庫)

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角川文庫版は完訳ではなく、上下2冊の抄訳です。
本記事の冒頭に書いたとおり、ユゴーの小説は余計な部分が多いため、完訳にこだわらず、抄訳で済ませるのも決して悪くはない選択肢です。実際、ミュージカル版が映画化されたとき、最も売れていたのは角川文庫版でした。
筆者は読んでいないので、どの程度はしょっているのか正確にわかりませんが、パラパラと眺めた印象では、大事なところはきちんと残していますので、ストーリーの全体を追うには不足は無いように思いました。

おまけ 鹿島茂『「レ・ミゼラブル」百六景』(文春文庫)


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さて、岩波文庫以外の文庫には挿絵はついていないのですが、それを補うのにうってつけの本が鹿島茂の『「レ・ミゼラブル」百六景』です。
挿絵の中から百六枚を選び、該当シーンの簡単なあらすじを付したもので、完訳を読みながら手元に置いておくと、挿絵によって読解が助けられ、また忘れかけている前の方のエピソードをすぐに確認できますし、さらに鹿島教授の軽妙な解説で作品理解が深まります。
挿絵全点を収録しているわけではないのですが、岩波文庫版の古い訳には抵抗があるが、挿絵と一緒に作品を楽しみたい、という方にはオススメです。

黒岩涙香『噫無情』

最後に、こちらをご紹介しましょう。


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以前の「モンテ・クリスト伯」の記事の際にも、涙香の「巖窟王」を紹介しましたが、「レ・ミゼラブル」が日本で「ああ無情」のタイトルで知られるようになったのは、明治時代に黒岩涙香が「噫無情」というタイトルで翻案したためです。
「噫無情」は、完訳ではありませんが、冒頭にも書いたような余計な部分はバッサリ切っていますので、内容的にはわかりやすく書き直しています。
とはいえ、明治時代の文章なので、決して読みやすくはありません。
また、登場人物名が日本風に置き換えられ、「戎瓦戎(ジャン・バルジャン)」「蛇兵太(ジャベール)」「手鳴田(テナルディエ)」「小雪(コゼット)」「花子(ファンティーヌ)」という具合になっています。この辺までは良いのですが、エポニーヌが「疣子」、アゼルマが「痣子」というのは、絶妙というか、無茶というか……
まあ、いろいろ話の種にはなりますので、ご興味のある方は原作を読んだ上で挑戦してみてはいかがでしょうか。

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「二銭銅貨」と「レ・ミゼラブル」

「ジャングル・ブック」原作を読むなら、おすすめの文庫はどれ? 各社版徹底比較!

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昨年夏にCGを駆使したディズニー映画が公開され話題となった「ジャングル・ブック」。
あちこちの文庫から原作の新訳も刊行されました。
この機会に読んでみようという方のために、各文庫の特色をご紹介します。

「ジャングル・ブック」について

まずは、「ジャングル・ブック」とはどんな小説でしょうか?
原作は19世紀末にイギリスの作家ラドヤード・キプリングによって書かれました。キプリングはのちにノーベル文学賞を受賞します。
物語はイギリス統治時代のインドのジャングルが舞台となっています。人間界から離れてジャングルに住む少年モウグリと動物たちとの交流がメインの連作短編集です。
実は原作では、モウグリが登場しないエピソードもいくつか書かれているのですが、日本で刊行されている翻訳のほとんどでは、主人公はモウグリということになっており、それ以外のエピソードは省略されています。
もともとは「The Jungle Book」「The Second Jungle Book」と2冊に分かれて刊行されていますが、その中からモウグリが登場する8篇を選ぶのが、一般的なのです。
また、ディズニー映画でも、かつてのアニメ版、今回の実写版いずれも、やはりモウグリが登場しないエピソードは省略されています。

もちろん、「ジャングル・ブック」全体で最も重要なのはモウグリの物語ですし、また、映画を見て原作も……という方にはこれで十分なわけですが、せっかくだからキプリングの書いた全てを読みたい、という方には、実は選択肢は一つしかありません。

角川文庫『ジャングル・ブック』『ジャングル・ブック2』 山田蘭・訳

それは角川文庫です。
角川文庫版も今回の映画化にあわせて新たに訳出されたものですが、完全訳を原著通り2冊にわけて出しています。それ以外には、これといった特長はないのですが、実は「ジャングル・ブック」の完訳は、過去にもほとんど例がなく、大変な偉業と言ってもよいことなのです。



ジャングル・ブック (2) (角川文庫)
KADOKAWA/角川書店
2016-08-25


新潮文庫『ジャングル・ブック』 田口俊樹・訳

今回の映画化にあわせて、新潮文庫からも新訳が出ましたが、こちらはモウグリの話だけを集めています。
新潮文庫の良い点は、原著の挿絵を収録しているところです。これは、他の文庫にはありません。筆者はこの点が気に入って、新潮文庫版で読みました。
ミステリの翻訳を数多く手がけている田口俊樹氏が訳しているのがちょっと意外です。

ジャングル・ブック(新潮文庫)
ラドヤード・キプリング
新潮社
2016-12-23

文春文庫『ジャングル・ブック』 井上里・訳 金原瑞人・監訳

一方、文春文庫の売りは、児童文学翻訳の第一人者、金原瑞人氏が「監訳」している点でしょう。

ジャングル・ブック (文春文庫)
ラドヤード・キプリング
文藝春秋
2016-06-10


金原瑞人氏は、児童向けの偕成社文庫版についても、こちらはご本人が翻訳されています。
この偕成社文庫版が全2冊にわかれており、「完訳版」と謳っているため、「お、これは完全訳か?」と思ってしまうのですが、実は2冊にわけているだけで、内容はモウグリのエピソードのみです。それぞれの短編については、完訳、ということのようです。まあ、サブタイトルに「オオカミ少年モウグリの物語」とありますので、嘘はついていないのですが、若干紛らわしいです。

ジャングル・ブック―オオカミ少年モウグリの物語〈第1部〉 (偕成社文庫)
ジョセフ・ラドヤード・キップリング
偕成社
1990-08-01


ジャングル・ブック―オオカミ少年モウグリの物語〈第2部〉 (偕成社文庫)
ジョセフ・ラドヤード・キップリング
偕成社
1990-08-25


児童向けの翻訳は、ほかにも岩波少年文庫などいろいろ出ていますが、完全訳はありません。
というわけで、完全訳をお望みなら、角川文庫版を、そうでなければ、お好みで新潮文庫か文春文庫を、というのが本日の結論です。
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筆者:squibbon
幼稚園児の頃から40を過ぎた現在に至るまで読書が趣味。学生時代は読書系のサークルに所属し、現在も出版業界の片隅で禄を食んでいます。
好きな作家:江戸川乱歩、横溝正史、都筑道夫、泡坂妻夫、筒井康隆、山田風太郎、吉村昭。好きな音楽:筋肉少女帯、中島みゆき。好きな映画:笠原和夫、黒澤明、野村芳太郎、クエンティン・タランティーノ、ティム・バートン、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャー。
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