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名作翻訳比較

「オペラ座の怪人」原作を読むなら、おすすめの文庫はどれ? 各社版徹底比較!

201802オペラ座の怪人184

ミュージカルや映画で有名な「オペラ座の怪人」。
もとはフランスの作家ガストン・ルルーが1910年に発表した小説です(Le Fantome de l'Opera)。
ルルーは本格ミステリの古典的名作として名高い「黄色い部屋の秘密」の作者でもあります。
原作を読んでみると、映画やミュージカルとはかなり内容が異なります。
怪奇的な味付けをほどこしてはいるものの、ストーリー展開は謎解きがメインとなっており、「黄色い部屋の秘密」と同じ作者であることが納得できる作品です。オペラ座で発生する数々の怪事件それぞれにトリックを用意しているあたりはミステリ好きとしてはにやりとさせられます。
ミュージカルで焦点が当てられている恋愛要素についても、詳しくは書きませんが登場人物の関係がかなり異なっています。

というわけで、ミュージカルから入った方が読むと幻滅するのか、逆に新鮮で面白いと思うのか? その辺はよくわかりませんが、ともかくこれから原作を読んでみようという方のため、原作小説の紹介をしたいと思います。

「オペラ座の怪人」は、現時点で入手可能な文庫は以下の3種類です。

オペラ座の怪人 (創元推理文庫 (530‐2))
三輪秀彦・訳
東京創元社
1987-01-18


オペラ座の怪人 (角川文庫)
長島良三・訳
角川書店
2000-02-25


オペラ座の怪人 (光文社古典新訳文庫)
平岡敦・訳
光文社
2013-07-10


少し前まで、ハヤカワ・ミステリ文庫にも日影丈吉訳が収録されていましたが、最近は見かけなくなりました。まだ在庫が残っている書店もあるかもしれませんが、出版社ではすでに品切れしているようです。日影丈吉は同じくハヤカワで「黄色い部屋の秘密」も出していましたが、こちらも以前から品切れで、少し前に新訳版に取って代わられてしまいました。「オペラ座の怪人」も品切れのままになっているのは、もしかすると、こちらも新訳を出す予定なのかもしれません(単なる推測です)。

さて、現在入手可能な上記3種類ですが、それぞれの特色をご紹介していきましょう。

創元推理文庫 三輪秀彦・訳

オペラ座の怪人 (創元推理文庫 (530‐2))
三輪秀彦・訳
東京創元社
1987-01-18


創元推理文庫版は文庫では早くに出たものであり、定番となっているバージョンです。1987年なので、「古い」というほど昔の訳ではないのですが、しかし、訳文を見るとかなり硬い表現が目立つ印象があります。
ただし1点、他にはない特長があり、それは原作の「Fantome」を「幽霊」と訳しているのです。
筆者はフランス語は全く知らないので、「Fantome」という語の意味や語感についてはなんとも評価できないのですが、小説を読んでいると「Fantome」は実在を感じさせる「怪人」ではなく、得体の知れない「幽霊」のつもり書いていたのでは、という印象を受けます。
日本では最初の映画が「オペラの怪人」という邦題で公開されたことから、この小説については「Fantome」=「怪人」という訳が定着していますが、本来は「オペラ座の幽霊」と訳すべき小説だったようです。(というか、そもそも「怪人」ってなに?という話ですが。筆者の知っている怪人は「怪人二十面相」と「オペラ座の怪人」、それに仮面ライダーの悪役のみです)
ちなみに「Project Gutenberg」で英語版を読んでみると、タイトルこそ「The Phantom of the Opera」ですが、本文中の「Fantome」は全て「ghost」と訳されています。
そんなわけで、原文の正確なニュアンスを体験するには「幽霊」という訳はおすすめできると思います。
ただ、エリックが姿を現してからは、やはり「幽霊」ではなく「怪人」と訳したほうがしっくりするかな、という気もします。
また、ミュージカルや映画は、ストーリーがかなりアレンジされており、「怪人」という訳語で全く問題ないようにも思います。ミュージカルのイメージを崩したくない方は「Fantome」を本文中でも「怪人」と訳している他のバージョンを選んだほうがよいかもしれません。
解説は紀田順一郎が書いており、映画化の歴史が概説されています。
価格は今のところ他社よりも安くなっています。

角川文庫 長島良三・訳

オペラ座の怪人 (角川文庫)
長島良三・訳
角川書店
2000-02-25


角川文庫版は2000年に刊行されており、シムノンやルブランなど、数々のフランスミステリの翻訳で知られる長島良三氏が訳しています。「Fantome」については場面ごとに「怪人」「幽霊」を使い分けていますが、原文では同じ単語あることはわかりません。
特に大きな特長があるバージョンではありませんが、あまり細かいことを気にせず、ミュージカル版の原作として楽しみたい方には、手軽に読めておすすめです。

光文社古典新訳文庫 平岡敦・訳

オペラ座の怪人 (光文社古典新訳文庫)
平岡敦・訳
光文社
2013-07-10


光文社版は最も新しい訳です。
古典新訳文庫なので訳文は読みやすく工夫されており、さらに巻頭にオペラ座の平面図・立面図が掲載されているのが親切です。解説も充実しています。
「Fantome」の訳については、角川文庫版と同じく、「怪人」「幽霊」を使い分けていますが、冒頭部のみ、「怪人」「幽霊」の訳語にそれぞれ「ファントム」とルビをふることで、原文では同じ単語であることを示しています。角川版よりも原文の語感を正確に伝えようとする意図が見えます(といっても「ファントム」は英語ですが)。
訳者の平岡敦氏はルブランの「ルパン」シリーズやポール・アルテなど、古典から新作まで、フランスミステリの翻訳でも知られています。

というわけで、読みやすさと正確さという観点では光文社古典新訳文庫版のポイントが最も高いのですが、価格がかなり高めです。本記事執筆時点で税込1426円。創元と角川はいずれも800円台です。
ミュージカルファンが手軽に読むなら、読みやすくて価格も安い角川文庫がおすすめかと思います。

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201711動物農場140

ジョージ・オーウェルは「一九八四年」がよく知られていますが、もう一つの代表作が「動物農場」です。薄くて読みやすい作品であるためとてもよく読まれており、翻訳は4種類刊行されています。
ハヤカワepi文庫、岩波文庫、角川文庫、ちくま文庫。
今回は各社版を比べて見たいと思います。



最も新しい訳がハヤカワepi文庫版で、2017年に出たばかりです。
訳者の山形浩生氏はSF小説、経済学、コンピュータ関連の翻訳をたくさん手がけており、各方面での言論活動でも有名です。
本書の解説は訳者自身が書いていますが、ソビエト連邦を知らない若い世代へ向けて、ということで非常にわかりやすい内容になっており、筆者の印象では「動物農場」を読むならば、この解説込みでハヤカワepi文庫版を選択するのがベストだと思っています。
また、訳文自体も、豚が演説するシーンでは左翼のアジテーションを思わせる口調になっていたりと、かなり楽しんで読むことができます。
本編とあわせてオーウェルによる「序文案」と「ウクライナ語版への序文」とが収録されており、作品理解の助けになります。
この文庫で読むと良い点がさらにもう一つあり、それはオーウェルの代表作「一九八四年」もハヤカワepi文庫から刊行されているため、「動物農場」もハヤカワepi文庫で揃えると、背表紙が揃います。「一九八四年」は他社からは出ていないのです。



ハヤカワ文庫と並ぶおすすめは、岩波文庫版です。
こちらは本編に加え2種類の序文を収録している点ではハヤカワ文庫と同じ。価格も同じようなものです。
おすすめポイントは膨大な注釈と、懇切丁寧な解説です。訳者はオーウェル研究の第一人者として知られています。
ただ、そもそも文章やストーリー自体には全く難しいところはないため、特に注釈がなくてもすいすい読める作品です。膨大な注釈は、著者の研究の成果を披露するためのものでは、という印象を受けます。
ハヤカワepi文庫は「若い人向け」と明快なコンセプトを打ち出していますが、岩波文庫それよりも上級者向け、文学書として読みたい方向けに仕上がっていると言ってよいでしょう。
岩波文庫からはほかに「オーウェル評論集」が出ています。文庫で読めるオーウェル作品は現在では「一九八四年」「動物農場」以外にはこの「評論集」くらいですので、ファンは要チェックです。今年2017年夏の一括重版の対象となっていたので、この記事を公開した時点では容易に入手できます。



さてここまでハヤカワepi文庫版と岩波文庫版とを紹介してきましたが、あとの2種類、角川文庫版とちくま文庫とは「開高健」がキーになります。

動物農場 (角川文庫)
高畠文夫・訳


角川文庫版は例によって非常に古く、昭和40年代に刊行されたものです。といっても、読みづらいということはありません。
本編のほかにオーウェルのエッセイ「象を撃つ」「絞首刑」「貧しいものの最期」を収録しており、一見、短編集のような体裁になっています。さらには開高健のオーウェル論「24金の率直 オーウェル瞥見」を収録していて、内容的には盛り沢山です。解説も古い内容ながらしっかりしています。
にもかかわらず価格は一番安くて、お得感のある一冊です。
なお、「象を撃つ」と「絞首刑」については岩波文庫の「オーウェル評論集」にも収録されているので、オーウェルのエッセイをもっとたくさん読みたいという方は本編を岩波文庫かハヤカワepi文庫で読み、あわせて「オーウェル評論集」も読む、という読み方もおすすめできます。



ちくま文庫版の「動物農場」は開高健が訳しています。本編以外にも開高健の論考「談話・一九八四年・オーウェル」「オセアニア周遊紀行」「権力と作家」を収録しています。
奥付によれば、本書はもともと「今日は昨日の明日 ジョージ・オーウェルをめぐって」と題してオーウェル関係のエッセイ・評論、そして「動物農場」の翻訳をまとめていた単行本を、文庫化したもののようです。
ただし、角川文庫版「動物農場」にも収録されている「24金の率直」は文庫化にあたって削除されています。
オーウェル好きよりは開高健のファンにおすすめバージョンですが、元版を完全収録していない点が少し引っかかります。
価格は他の文庫と比べると一番高いです。

というわけで、まとめますと、

◎本編だけを読むなら
 ソ連を知らない若者は → ハヤカワepi文庫
 チャラチャラした雰囲気が嫌な読書子に寄す → 岩波文庫

◎本編以外も読みたいなら
 さらっと読みたい → 角川文庫
 しっかり読みたい → 岩波文庫(またはハヤカワepi文庫)+岩波文庫「オーウェル評論集」

◎開高健ファン
 一通り読みたい → ちくま文庫
 全て読みたい → ちくま文庫+角川文庫

ということになります。
どれが最強なのか、結局よくわかりません。

子どもに初めて読ませる「シャーロック・ホームズ」おすすめ

筆者の息子は小学校の3年生ですが、順調にミステリに興味を持ち始め、最近はホームズばかり読んでいます。そこで、現在手に入る子供向けのホームズにどんなものがあるのか、まとめてみました。

児童向けのホームズはもう本当にたくさん出ています。書店の児童書売場へ行くと、コーナーの一角は今も相変わらず「ホームズ、ルパン」に占められているのです。
筆者が子どもの頃は、ホームズといえば阿部知二訳のポプラ社版がスタンダードでした。今も物持ちの良い図書館へ行くと並んでいたりしますが、今はこれに匹敵するほどのスタンダードがない状況です。
よく言えば、百花繚乱、悪く言えば、どれも決め手に欠ける。
とはいえ、いろいろ選択肢があり、選ぶ楽しさがあります。
あまりに種類が多いので、児童向けホームズの全てをご紹介とはいきませんが、筆者がおすすめできるものをみていきたいと思います。

学研 10歳までに読みたい名作ミステリー 名探偵シャーロック・ホームズ



表紙のイラストやシリーズ名からわかる通り、低年齢向けのシリーズです。字も大きく、文章も読みやすく工夫されているのですが、筆者としては実はこのシリーズを一番オススメします(これで物足りない年齢になっているなら、いきなり完訳を読めばOK)。
というのは、これはミステリ作家の芦辺拓が翻訳を担当しているのです。ミステリマニアとしてホームズについて知り尽くした芦部氏の手によるものだけに、信頼度は抜群。ホームズの入門書として理想的な仕上がりです。



ちなみに、同シリーズのルパンシリーズはやはりミステリ作家の二階堂黎人が訳しています。
怪盗アルセーヌ・ルパン 全5巻 (10歳までに読みたい名作ミステリー)
二階堂黎人
学研プラス
(シリーズ全5巻セット)


岩崎書店 新装版シャーロック・ホームズ



筆者の息子は近所の図書館でこのシリーズをボチボチと借りています。内田庶と中尾明の二人で手分けして訳しています。筆者もいくつか読んでみましたが、小学生にわかりやすいよう適宜要約しながら、比較的原文に忠実に、正確に訳しています。1冊に2話ずつのみ収録されていますので、かなり読みやすいようです。
ただし、巻数が多い割には、このシリーズで全作品が揃うわけではないので、ご注意ください。

講談社青い鳥文庫 名探偵ホームズ

名探偵ホームズ 赤毛組合 (講談社青い鳥文庫)
アーサー・コナン・ドイル
講談社



ホームズ・シリーズの全作品を児童向けで読んでみたいということであれば、青い鳥文庫がおすすめです。ただ、対象年齢は少しあがって5~6年生くらいでしょうか。
訳者の日暮雅通氏は熱心なシャーロキアン(シャーロック・ホームズのマニア)として知られる翻訳家なので、内容は信頼できます。訳文を小学生にもわかりやすく工夫しているだけで、要約などはしていない完訳です。


偕成社 シャーロック・ホームズ全集



これは筆者が子どもの頃から定番で、今も書店に並んでいます。
ポプラ社から出ていた阿部知二訳は、若干の胡散臭さが漂っていましたが、こちらの偕成社版は重厚な装丁で「ホンモノ」感が圧倒的でした。訳者もベテランが揃っています。ここまでに紹介してきたシリーズがいずれも物足りない、という場合はこれが決定版です。

光文社文庫 新訳シャーロック・ホームズ全集



ホームズシリーズは一般向けの文庫もたくさん出ています。
個人的には「新潮文庫版はやめておいた方がよい」と思っていますが(でも、一番売れているのは新潮文庫)、それ以外の文庫であればどれで読んでも大差ありません。
小学校高学年、あるいは中学生くらいであれば一般向けの文庫でも充分に読めると思いますが、活字の大きさ、訳文の読みやすさ、装丁の美しさなど考えると、子どもに読ませるなら光文社文庫版がベストかな、と思います。訳者は上でご紹介した青い鳥文庫版と同じ、日暮雅通氏です。
(子どもではなく、一般の方が読むのであれば、創元推理文庫か河出文庫がよいと思っていますが)
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筆者:squibbon
幼稚園児の頃から40を過ぎた現在に至るまで読書が趣味。学生時代は読書系のサークルに所属し、現在も出版業界の片隅で禄を食んでいます。
好きな作家:江戸川乱歩、横溝正史、都筑道夫、泡坂妻夫、筒井康隆、山田風太郎、吉村昭。好きな音楽:筋肉少女帯、中島みゆき。好きな映画:笠原和夫、黒澤明、野村芳太郎、クエンティン・タランティーノ、ティム・バートン、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャー。
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