備忘の都

40年間の読書で得た偏った知識をツギハギしながら、偏った記事をまとめています。同好の士の参考に。

海外ミステリ

宮脇孝雄『洋書天国へようこそ』は翻訳ミステリ・SFファンにおすすめ

201908洋書天国へようこそ329

先月末に出たばかりの本ですが、語学書専門のアルクから出版されているせいか、文芸書売場であまり見かけないので、紹介しておきます。
著者の宮脇孝雄氏は言わずと知れた「死の蔵書」の訳者。数多くのミステリを翻訳しています。
また翻訳家としてのエッセイも多く、アルクから発行する著書もこれで3冊目です。

アルクは語学好きをターゲットとしているため、これまでの著書は文学好きというよりは、一歩踏み込んで、原書を読んだり、更には翻訳家を目指したりと言った層を対象にしている印象がありました。
今回の「洋書天国へようこそ」もタイトルからわかる通りそういった読者を念頭には置いているものの、よく見ると帯に「翻訳で読んでもおもしろい!」と書いてあるではないですか。
そう、筆者のように、学生時代に最も苦手だった科目は英語、小説は好きなのに原書を読んだことは一度もない、英語を読めたらどんなに楽しい読書生活が広がることかと、嘆息しているな読者でも楽しめる内容なのです。

取り上げている小説は、知らないものもたくさんありましたが、大半はミステリ・SFファンには馴染みのある有名作品です。
作家の文章の癖や、微妙なニュアンスなど、翻訳家らしい視点を織り交ぜながら作品の魅力を語っており、未読の本を読みたくなるのはもちろん、昔読んだ本も「あれ、そんなに面白い小説だったっけ?」と、改めて読み返したくなる。
読書ガイドとして非常に楽しい内容になっています。
取り上げている作品は以下のとおりです。

『移動祝祭日』アーネスト・ヘミングウェイ
『さらば愛しき女よ』レイモンド・チャンドラー
「プロシア士官」D・H・ロレンス
『よき兵士』フォード・マドックス・フォード
『情事の終り』グレアム・グリーン
『サン・ルイス・レイ橋』ソーントン・ワイルダー
『大転落』イーヴリン・ウォー
『スタイルズ荘の怪事件』アガサ・クリスティ
『碾臼』マーガレット・ドラブル
『チップス先生さようなら』ジェイムズ・ヒルトン
『女ごころ』サマセット・モーム
『八月の光』ウィリアム・フォークナー
『クリスマス・キャロル』チャールズ・ディケンズ
『二十日鼠と人間』ジョン・スタインベック
『ゴールド・フィンガー』イアン・フレミング
『ツバメ号とアマゾン号』アーサー・ランサム
『ジャマイカの烈風』リチャード・ヒューズ
『夏への扉』ロバート・A・ハインライン
『結晶世界』J・G・バラード
『ミレー詩集』エドナ・セント・ヴィンセント・ミレー
『ジェニーの肖像』ロバート・ネイサン
『ナイン・ストーリーズ』J・D・サリンジャー
『長距離走者の孤独』アラン・シリトー
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック
『魔法の樽』バーナード・マラマッド
『九マイルは遠すぎる』ハリイ・ケメルマン
『ローズマリーの赤ちゃん』アイラ・レヴィン
『ガラスの動物園』テネシー・ウィリアムズ
『時計じかけのオレンジ』アントニイ・バージェス
『風にのってきたメアリー・ポピンズ』P・L・トラヴァース
『デイジー・ミラー』ヘンリー・ジェイムズ
『ガラスの鍵』ダシール・ハメット
『帽子収集狂事件』ジョン・ディクスン・カー
『アラバマ物語』ハーパー・リー
『遠い声 遠い部屋』トルーマン・カポーティ
『ライオンと魔女』C・S・ルイス
『秘密の花園』フランシス・ホジソン・バーネット
『エジプト十字架の謎』エラリー・クイーン
『死体をどうぞ』ドロシー・L・セイヤーズ
『床下の小人たち』メアリー・ノートン
『白鯨』ハーマン・メルヴィル
『ナンタケット生まれのアーサー・ゴードン・ピムの物語』エドガー・アラン・ポー
『宇宙船ビーグル号』A・E・ヴァン・ヴォクト
『刺青の男』レイ・ブラッドベリ
『勇気ある追跡』チャールズ・ポーティス
『卒業』チャールズ・ウェッブ
『幻の女』ウィリアム・アイリッシュ
『ラブ・ストーリィ』エリック・シーガル
『ギリシア詞歌集』ピーター・ジェイ

邦題がいくつかある作品については、著者が最初に触れた翻訳本に合わせていると思われます。
『勇気ある追跡』って、コーエン兄弟が「トゥルー・グリッド」としてリメイクした映画の邦題やんか、と思いましたが、旧作が公開されたときはこのタイトルで翻訳が出ていたんですね。




ピーター・アントニイ「衣装戸棚の女」は映画「スルース」好きにおすすめ

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毎年恒例の創元推理文庫復刊フェア。
今年のラインナップには「衣装戸棚の女」が入っていたので買ってきました。
この本、それほど激レアというわけではないのですが、筆者はこれまでずっと買うタイミングを逃していました。以前にこちらの記事に書いたとおり、 小口研磨本を買えないという持病のため、書店で平積みされている期間に買い損ねると、あとで棚に並んでいても手を出せなくなってしまうのです。
数年ぶりの重版となる今回は、Twitterという文明の利器のおかげフェア開始前から情報を入手でき、ようやく美本で購入できました。

というわけで、今回はじめて読みました。
ピーター・アントニイというのは兄弟合作のペンネームなのですが、その正体はピーター・シェーファーとアンソニー・シェーファー。ピーターは「アマデウス」の作者、アンソニーは「スルース」の作者といういずれも偉大な代表作を持つ天才劇作家です。
解説を読むとあまりエッセイなどを書いていないようで、ミステリの好みなどはよくわからないのですが、戯曲「スルース」や映画「ナイル殺人事件」「ウィッカーマン」の脚本などを執筆したアンソニー・シェーファーがミステリマニアであることは間違いありません。(「スルース」については、以前にこちらの記事で紹介しています)
また、モーツァルトを描いた「アマデウス」も、全体の構成は実にミステリ的なんですよね。

会話によって物語がどんどんと展開していくのは、さすが劇作家コンビです。
密室には死体が一つと、クローゼットに紐で縛られて放り込まれていた女が一人。容疑者が窓から出入りしているところが目撃されたりなど、いろいろな要素が複雑に絡み、あらゆる面から事件が検証されていくという本格ミステリです。
そして最後に明かされるネタ! これは「スルース」の作者らしい人を食ったものですね。ドタバタしたユーモラスな展開のおかげでとても愉快な気分で読み終えました。しかし考えてみると、こういうことをユーモアで包まずにガチでやっているのが島田荘司だよな、とも思いました。
ちなみに、筆者が「スルース」を知ったのは、島田荘司「斜め屋敷の犯罪」の中で、御手洗潔がこの映画についてひとくさり語るシーンがあったためです。

ともかく、映画「スルース」が好きな方にはぜひおすすめの一冊です。この機会をお見逃しなく。

衣裳戸棚の女 (創元推理文庫)
ピーター・アントニイ
東京創元社
1996-12-21



宮田昇『昭和の翻訳出版事件簿』(創元社)を読む

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今年度の日本推理作家協会賞 評論・研究部門を宮田昇『昭和の翻訳出版事件簿』(創元社)が受賞しました。

著者の宮田昇氏は御年90歳。早川書房で翻訳出版に携わった後、翻訳エージェントとして長年活動し、これまでにも翻訳史に触れた著書がいくつかあります。一方で、内田庶名義で児童向けの翻訳も多数刊行してきました。

この著者の本は以前に『戦後「翻訳」風雲録』(2000年・本の雑誌社)を読んだことがあります。今は、みすず書房から『新編戦後翻訳風雲録』として再刊されています。



これは、主に早川書房時代に関わった翻訳家たちのエピソードをあれこれ綴ったもので、登場するのは田村隆一、高橋豊、宇野利泰、清水俊二など、海外ミステリ好きにはお馴染みの名前ばかりです。
翻訳家は名前だけはよく見ますが、小説家と違ってその人となりはなかなかわかりません。奇人揃いのハチャメチャと言ってよいエピソードがぞろぞろ出てきて、「本の雑誌」連載中から愛読していました。
おそらく今回の日本推理作家協会受賞はこの「戦後翻訳風雲録」がミステリ好きのあいだで読まれてきたことがきっかけになっているでしょう。

さて、昨年発行された『昭和の翻訳出版事件簿』ですが、筆者は読もうかどうしようか迷いつつ、結局そのままスルーしていたところ、協会賞受賞と聞いて慌てて買ってきて読みました。
おお、これは面白い!

今年は「評論・研究部門」というタイトルでしたが、推理作家協会賞の評論その他の部門は、必ずしも「評論」が受賞しているわけではありません。
ミステリとは全く関係ないのに、「面白いから」というだけの理由で受賞してしまうことがよくあります。過去には瀬島龍三の評伝『沈黙のファイル』や、美術評論である『ゴッホの遺言』なんて本が受賞したこともあります。
その一方で、ミステリの研究書として価値の高い作品が順当に受賞することもあるのですが、今回の『昭和の翻訳出版事件簿』はその両方の意味合いで受賞したものと思われ、協会賞の面目躍如と言えます。(近年では他に栗原裕一郎 『〈盗作〉の文学史』も同じような印象を持ちました)

言及される作品はミステリもありますが、大半は純文学や児童文学です。
しかし、話が非常に面白い。
よく知られていますが、海外文学の翻訳にはかつて「十年留保」というルールがありました。これは簡単に言うと「原著の発行から10年以内に日本語訳が発行されなければ、その作品は翻訳権がフリーになる」というもので、現在は廃止されているのですが、いったん翻訳権がフリーになると基本的に復活することはないため、例えばカーやクリスティのように著作権保護期間にある作家であっても、作品によっては自由に翻訳できる作品があったりします。
筆者はこのルールをいたってシンプルに認識していたのですが、実はこれが非常に奥深い。
本書のほとんどはこの「十年留保」や「日米間翻訳自由」の条約を巡って起きたトラブルを紹介したものなのですが、ミステリ的な謎解きやどんでん返しに満ちています。

例えば。
クリスティの作品には翻訳権が消滅している(=誰でも自由に翻訳出版できる)作品がいくつかあります。要するに早川書房以外の出版社からも出ている作品、「アクロイド殺し」や「ABC殺人事件」などは「十年留保」の規定によって翻訳権がフリーになっています。このため、どこの出版社でも翻訳を出せるのです。
「オリエント急行の殺人」も昭和20年代に早川書房が発行して以来、そのような作品の一つと考えられてきたのですが、実は平成15年にもなってからクリスティの著作権を管理する団体から「著作権侵害」ということで、「オリエント急行」を発行している各出版社が抗議を受けたというのです。
調べてみると、事情がわからないものの早川書房が最初に翻訳した時点で実は翻訳権は存続しており、早川はそれに気づかず(?)無断で発行してしまっていたのでした。早川書房は謝罪し、改めて契約を結びます。
そのうえで、他の出版社に対しては即時絶版・在庫破棄を求める通知が来たため、ある出版社が宮田氏へ相談を持ちかけたのだそうです。
そのときの氏のアドバイスは「早川書房が最初の翻訳のときに正式な契約を結んだかどうか確認しろ」というもの。
つまり、最初の翻訳のときに許諾を得ていないのであれば、単に海賊版が発行されたというだけの話で、翻訳権を得ているわけではないから、その後、十年留保によって翻訳権は消滅している、という理屈。
とんでもない屁理屈!と思ってしまいますが、その後、各社とも特に絶版せずに刊行を続けているので、どうやらこの論法が功を奏したようなのです。

というような、他にも「カナダとの同時刊行」だとか「イラストの複製権」だとか「翻訳はいいけど翻案は駄目」だとか「戦時加算」だとか、とにかく複雑な要素が様々に絡み合うまさに「事件簿」があれこれ紹介されますが、「ユリシーズ」「くまのプーさん」「シートン動物記」と、馴染みの深い作品ばかりが登場するため、なるほどなるほど、と興味深く最後まで一気読みでした。

海外文学が好きな方はもちろんですが、単純に面白いノンフィクション、エッセイを読みたいと思っている方にもおすすめできる本です。

昭和の翻訳出版事件簿
宮田 昇
創元社
2017-08-03




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筆者:squibbon
幼稚園児の頃から40を過ぎた現在に至るまで読書が趣味。学生時代は読書系のサークルに所属し、現在も出版業界の片隅で禄を食んでいます。
好きな作家:江戸川乱歩、横溝正史、都筑道夫、泡坂妻夫、筒井康隆、山田風太郎、吉村昭。好きな音楽:筋肉少女帯、中島みゆき。好きな映画:笠原和夫、黒澤明、野村芳太郎、クエンティン・タランティーノ、ティム・バートン、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャー。
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