2016年に洋泉社から刊行された「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか―冤罪、虐殺、正しい心」が改題され、ハヤカワ文庫ノンフィクションに収録されました。
単行本が出た際にもかなり評判になっているのことは知っており、書店で何度か手には取っていたのですが、タイトルからいまいち内容を想像できず、重量級の雰囲気に恐れをなしたこともあって見送っていました。
このたび文庫化されたということで改めて手に取ってみると、装丁からして「タダモノでない」というオーラが漂っており(まあそれは単行本のときもそうだったのですが)、また内容についても興味を持てそうなものであると確認できたため、買ってきました。
いや、これはとんでもない本ですね。
文庫版のあとがきで著者は「そもそも、本書は『白鯨』や『黒死館殺人事件』の如き文学作品のつもりで執筆しました。」と記していますが、まさに!
個人的な事情ですが、「白鯨」について以前に下記の記事でこれがいかにとんでもない「奇書」であるかを紹介し、なおかつそこで「黒死館殺人事件」と比較していたということがあるため、本書のあとがきを読みながら、「うんうんうん」と、強くうなづいてしまいました。
「白鯨」を読破するなら、おすすめの文庫はどれ?
裏表紙に記載の内容紹介を見ると以下の通りとなっています。
18歳の少年が死刑判決を受けたのち逆転無罪となった〈二俣事件〉をはじめ、戦後の静岡で続発した冤罪事件。その元凶が、“拷問王”紅林麻雄である。検事総長賞に輝いた名刑事はなぜ、証拠の捏造や自白の強要を繰り返したのか? アダム・スミスからベイズ統計学、進化心理学まで走査し辿りついたのは、〈道徳感情〉の恐るべき逆説だった! 事実を凝視することで昭和史=人類史を書き換え、人間本性を抉る怪著。ということで、一見、冤罪事件を取材したノンフィクションと思われますが、実はそれは全く入り口に過ぎません。
あまりに情報量が多すぎて、一回読んだだけでは頭の中で内容を全然整理できないのですが、事件に関わる人物の一人ひとりについて、常軌を逸した熱量で文献を渉猟していきます。
この結果、内容紹介にある通り「昭和史=人類史を書き換え、人間本性を抉る」という次元にまで到達してしまうのですが、正直なところ、脇道に入り込みすぎて、何を読んでいるのか途中でワケがわからなくなってくることもしばしばです。
これぞまさに「白鯨」や「黒死館殺人事件」の世界。
ただし、これは書き方を真似たというわけではなく、「『白鯨』のような例があるから、こういう書き方でも許される(あるいは、読者がついてこられる)だろう」という精神的な拠り所になっていたということかな、と思われました。
というのは、著者がこれだけ細部に執着するのには理由があり、世の中にあふれる以下のような本、すなわち、一次資料に当たらず受け売りで書かれた本、事象に関連性を見出し物語として図式的理解に落とし込んでしまう本といったものは、冤罪事件と本質的に同根の人間の本性から生み出されている、と本文中でしきりに繰り返しているのです。
このような批判を展開しているからには、本書自体は必然的に百科全書的な書き方にならざるを得なかったわけです。
ともかく、中途半端な文字数で書評など書けない、超弩級の内容でした。
みすず書房あたりが、何千円という価格で何十年も版を重ねているような古典的名著と比較しても全く劣らない、現代の名著です。