筆者は子どもの頃は今以上に本好きだったように思います。
夏休みの楽しかった思い出といえば、海や川で泳いだり、虫を捕まえたりといったこと以上に、風通しのよい部屋で、畳に寝そべってずっと本を読み続けていたことがまず頭に浮かびます。
親や親戚のおじさんからは、しょっちゅう本を買ってもらっていましたが、5年生くらいになって一人で本屋へ通うようになるまでは、基本的に筆者の本は周りの大人たちが選んで買っていました。
一緒に本屋へ行ったとしても、筆者が自分の好きな本を立ち読みしているあいだに、買う本は勝手に選ばれていました。両親だけでなく、おじさんに本を買ってもらうときも同じような展開だったので、当時の大人は本というのはそういうものだと考えていたのかもしれません。
当時もこの方式に特に不満は持っていなかったのですが、今ふりかえってみても、あれはあれで、非常に良かったと思います。
このような体験から、実は本好きの子どもを育てるには、ある時期までは大人の介入が必要なのではないか、ということを考えています。
息子が小学4年生になって読書のレベルが上ってくると、ますますそのように考えます。
子どもには興味の赴くままに好きに本を読ませておくのが一番だ、ということが世間の本好きのあいだではよく言われます。そして、課題図書を選定するなど何かというと「良書」へ子どもを導こうとする学校教育での読書指導に対する批判がなされたりします。
しかし、筆者は子どもへの「押し付け」は、ある程度はあった方がよいと考えます。
好きな本を好きなように読む、というのも本好きに育つためには必要なことですが、それと並行して、子どもがまだ知らない世界、背中を押してやらなければ手を伸ばさないであろう分野を、読書の先輩として大人が指し示すということも必要です。
筆者自身が子どもの頃を振り返ると、そもそも「西遊記」「十五少年漂流記」あたりも、タイトルすら聞いたことがないという段階で父が何の相談もなく突然買ってきたものでした。「漢字だらけの題名で難しそうだな」と思いつつも、読んでみるとめちゃくちゃ面白い。これで一気に「世界の名作」への扉が開いたわけです。
また、読書感想文用の課題図書は、毎年必ず母が買ってきました。母はかなりの読書家なのですが、一方で「ベストセラーを必ず買う」というミーハーな一面も持っており、今でも筆者が「うへー」と思うような本をいそいそと買ってきているのを見かけますが、課題図書を毎年買っていたのもその一環かな、という気がします。
しかし、この課題図書、やはり選ばれるだけあって読んでみると面白いんですよね。
自分では絶対に探し出せないであろう面白本を紹介してもらえるのが課題図書、というイメージを持っていました。課題図書は物語だけでなく、ノンフィクションも多いため、そういった方面の本の読み方もこの時期に身に着けたように思います。
そんなわけで、筆者は息子には「こいつが自分では見つけられないだろう本を、ポンと目の前に置いてやろう」ということをいつも気にしています。
とはいえ、毎回食いつくわけではありません。
満を持しておすすめしてみたものをあっさりスルーされるとかなりガッカリしますが(一年生のうちに「大きい1年生と小さな2年生」を読んでくれなかったのが未だに悲しい)、以前の記事に書いたように「十五少年漂流記」は苦心の末に読ませることに成功、その後、何度も読み返しているのでしてやったりです。乱歩の少年探偵団シリーズもまんまと読ませることができました。
とはいえ、大人が読書に介入できる時期はたぶんそろそろ終わりでしょう。5~6年生になったら、それこそ好きな本を好きなように選んで読むのが当たり前になってきます。
まあ、そのときには本好き同士でガチに趣味の話をするのもいいかな、と思います。
次回は、夏休みの難関、読書感想文について。
夏休みの楽しかった思い出といえば、海や川で泳いだり、虫を捕まえたりといったこと以上に、風通しのよい部屋で、畳に寝そべってずっと本を読み続けていたことがまず頭に浮かびます。
親や親戚のおじさんからは、しょっちゅう本を買ってもらっていましたが、5年生くらいになって一人で本屋へ通うようになるまでは、基本的に筆者の本は周りの大人たちが選んで買っていました。
一緒に本屋へ行ったとしても、筆者が自分の好きな本を立ち読みしているあいだに、買う本は勝手に選ばれていました。両親だけでなく、おじさんに本を買ってもらうときも同じような展開だったので、当時の大人は本というのはそういうものだと考えていたのかもしれません。
当時もこの方式に特に不満は持っていなかったのですが、今ふりかえってみても、あれはあれで、非常に良かったと思います。
このような体験から、実は本好きの子どもを育てるには、ある時期までは大人の介入が必要なのではないか、ということを考えています。
息子が小学4年生になって読書のレベルが上ってくると、ますますそのように考えます。
子どもには興味の赴くままに好きに本を読ませておくのが一番だ、ということが世間の本好きのあいだではよく言われます。そして、課題図書を選定するなど何かというと「良書」へ子どもを導こうとする学校教育での読書指導に対する批判がなされたりします。
しかし、筆者は子どもへの「押し付け」は、ある程度はあった方がよいと考えます。
好きな本を好きなように読む、というのも本好きに育つためには必要なことですが、それと並行して、子どもがまだ知らない世界、背中を押してやらなければ手を伸ばさないであろう分野を、読書の先輩として大人が指し示すということも必要です。
筆者自身が子どもの頃を振り返ると、そもそも「西遊記」「十五少年漂流記」あたりも、タイトルすら聞いたことがないという段階で父が何の相談もなく突然買ってきたものでした。「漢字だらけの題名で難しそうだな」と思いつつも、読んでみるとめちゃくちゃ面白い。これで一気に「世界の名作」への扉が開いたわけです。
また、読書感想文用の課題図書は、毎年必ず母が買ってきました。母はかなりの読書家なのですが、一方で「ベストセラーを必ず買う」というミーハーな一面も持っており、今でも筆者が「うへー」と思うような本をいそいそと買ってきているのを見かけますが、課題図書を毎年買っていたのもその一環かな、という気がします。
しかし、この課題図書、やはり選ばれるだけあって読んでみると面白いんですよね。
自分では絶対に探し出せないであろう面白本を紹介してもらえるのが課題図書、というイメージを持っていました。課題図書は物語だけでなく、ノンフィクションも多いため、そういった方面の本の読み方もこの時期に身に着けたように思います。
そんなわけで、筆者は息子には「こいつが自分では見つけられないだろう本を、ポンと目の前に置いてやろう」ということをいつも気にしています。
とはいえ、毎回食いつくわけではありません。
満を持しておすすめしてみたものをあっさりスルーされるとかなりガッカリしますが(一年生のうちに「大きい1年生と小さな2年生」を読んでくれなかったのが未だに悲しい)、以前の記事に書いたように「十五少年漂流記」は苦心の末に読ませることに成功、その後、何度も読み返しているのでしてやったりです。乱歩の少年探偵団シリーズもまんまと読ませることができました。
とはいえ、大人が読書に介入できる時期はたぶんそろそろ終わりでしょう。5~6年生になったら、それこそ好きな本を好きなように選んで読むのが当たり前になってきます。
まあ、そのときには本好き同士でガチに趣味の話をするのもいいかな、と思います。
次回は、夏休みの難関、読書感想文について。
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