引き続きドラマ「モンテ・クリスト伯」の話です。

前回の記事は、主にあらすじの面から原作との違いを振り返ってみました。
今回は、キャラクター設定についてです。

主人公エドモン・ダンテス(モンテ・クリスト伯爵)の設定は、あらすじを見る限りでは原作に忠実なように見えます。
しかし、ドラマを通して見ていると、やはり原作からは若干の違和感があります。
簡単にいうと、こんなサイコ野郎だったっけ??ということになります。

原作でも確かに傍若無人な振る舞いは目立ち、また復讐の対象者には、慇懃な態度をとりながらも極めて冷酷に計画を進めていきます。
しかし、そうでありながら、きちんと心に血が通っていることがわかる描写が端々にあります。

いくらひどい目に遭ったとは言え、このような大掛かりな復讐を、まともな頭の持ち主が良心を痛めずに実行できるものなのか。
実は原作にはそこに一つの仕掛けがあります。
ダンテスは「この復讐は神に許されている」と考えているのです。
従って、冷酷な計画であるように見えても、全ては神が許す範囲内であり、それを超えるような振る舞いは決してしません。
獄中でファリア神父と出会ったことで生まれた信心が、このような形で物語に一本の筋を与えているのです。

「神に許し」が最も強く意識されるのは、ヴィルフォールに対するエピソードです。
ドラマでは、入間公平の奥さんは自ら毒を飲みましたが、原作でもヴィルフォール夫人は息子を道連れにして自殺します。
ヴィルフォールは二人の亡骸を前にして、モンテ・クリスト伯爵に対し「これがお前の復讐の結果だ!」と詰め寄り、その後発狂します。
この光景を見た伯爵は「神が許す範囲を超えてしまった!」と衝撃を受けるのです。

このエピソードの前にすでにフェルナン(ドラマでは南条)は自殺していましたが、「最後に残った者だけは命を助けよう」と考え、ダングラール(ドラマでは神楽)は解放されます。
ドラマでは最後に「ああ、楽しかった」とつぶやくのですが、原作の設定から言えば、このようなセリフはあり得ません。

というわけで、ストーリー面から見ると、現代日本に置き換えた割りにはかなり頑張って原作を再現していたと思いますが、精神面では、やはり原作の方が深みがあると思いました。
ドラマを見ていろいろと疑問を感じたという方は、ぜひ原作も手に取っていただきたいと思います。長大な古典名作文学ということで尻込みされる方も多いようですが、ざっくりしたストーリーが頭に入っていればあっという間に読めてしまう、エンターテインメントの傑作です。
ドラマがいかに原作を尊重していたか、しかしどの点で及んでいないか、ぜひ比べてみてください。





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