201805破滅の美学217

映画「仁義なき戦い」のことを「仁義」と略す人をよく見かけますが、筆者はこの言い方に猛烈な違和感を覚えます。
というのは、この映画はあくまで「仁義なき」であって、「仁義」を描いたものではないからです。
「おいおい、肝心なところを抜かすんじゃない」と言いたくなってしまいます。

ところで、その「仁義」って何?
ホンモノのヤクザ屋さんはどうなのか知りませんが、ふつうの人は映画でしか聞いたことのない単語だと思います。
「仁義」「義理と人情」「任侠」
いずれも「やくざを美化する」言葉として知られていますが、これらの単語は、やくざ映画を見る上での基礎教養ともいうべきものです。
何回かにわけて、映画の世界における、やくざの基礎を解説してみます。

初回はその「仁義」ですが、この単語には2つの意味があります。

現在の一般的な会話でも「筋を通すために挨拶する」という意味合いで「仁義を切る」という言い方がよくされます。
これは元は、やくざの世界で交わされた独特の挨拶に由来します。
「男はつらいよ」の冒頭で、寅さんが「人呼んでフーテンの寅と発します」という口上を述べますが、これが「仁義」です。腰をかがめ、右手の拳を敷居につく姿勢を取りながら言葉を発します。
ひとくちに「やくざ」といっても、博徒、テキ屋などさまざまな生業がありますが、面識のない者でも厳格に決められた所作を互いにとることで、同業の渡世人だと確認できるわけです。
任侠映画では「緋牡丹博徒」シリーズで仁義を切る藤純子の美しさ、凛々しさは格別のものでした。

もう一つ意味は「仁義」の字義通りの意味です。
儒教において重視される、人間関係の最低限の礼儀、道徳上の筋目のことです。
やくざの世界は盃を交わすことで「親子」「兄弟」という擬似的な家族関係が構成されますが、ここでの仁義は非常に重要なものとされ、これを無視することは任侠道においてはあってはならないこととされています。
「仁義なき戦い」における「仁義」はこの意味です。
つまり、盃を交わしたはずの親子・兄弟が裏切る。
それまでの東映任侠映画は「仁義」を重んじる古風なやくざ世界を描いてきました。
しかし、「仁義なき戦い」は戦後の退廃したやくざ(=暴力団)を主役に据えて、様式化された任侠映画に飽きた観客を虜にしたというわけです。
現在の視点から見ると、過激なセリフやアクションのみが注目されてしまいますが、ストーリーにおいては親が子を売り、兄弟同士が裏切る、というそれまでの任侠映画ではあり得なかった展開で、観客の度肝を抜くことを狙っていたわけです。

とはいえ、「仁義なき戦い」のセリフやアクションはあまりに凄まじく、それまで任侠映画に縁のなかった層をもあっという間に取り込み、「実録路線」として、アクション重視の作品が量産されていくことになりました。
「仁義なき戦い」シリーズのみは、任侠路線と実録路線との結節点として、「任侠映画の否定」という主題を見て取ることができますが、その後の実録路線映画には、そのような悩ましいテーマは見られず、ひたすら生の暴力で見せていく映画が続いたのでした。

破滅の美学 (ちくま文庫)
笠原 和夫
筑摩書房
2004-02-11



仁義なき戦い 浪漫アルバム
杉作 J太郎
徳間書店
1998-05-01


東映実録バイオレンス浪漫アルバム
杉作J太郎
徳間書店
2018-04-21





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