20170402昭和天皇062

筆者は昭和史に興味を持つより先に、昭和天皇のファン(?)として昭和天皇について書かれた本を読みあさっていた時期があります。
読み物として非常に面白いものがたくさんあり、読書好きにとっては金脈の一つだと思っていますが、今回は本の紹介ではなく、本を読む中で知った、昭和天皇のエピソードをいくつかご紹介したいと思います。

記憶の王

(リンク先はAmazon)
(リンク先はAmazon)

松本健一は昭和天皇について書かれた著書をいくつか遺していますが、その中で昭和天皇のことを「記憶の王」と呼んでいます。
昭和天皇の記憶力が異常に良かったということは、側近たちの日記などいくつもの史料から確認することができるそうで、『昭和天皇伝説』『畏るべき昭和天皇』のなかでは、昭和天皇の記憶にまつわるさまざまなエピソードが紹介されています。
また、昭和天皇の口癖として「あ、そう」という言葉がよく知られています。
園遊会などの様子をテレビで見ると「あっそう」を連発していたものですが、松本健一は、この口癖と、異常な記憶力とは、いずれも昭和天皇が伝統的な天皇のあるべき姿に忠実であろうとした結果だと分析しています。

どういうことか。

明治維新後の統治権・統帥権を総攬する国家元首としての天皇は、古代から続く天皇の歴史においては異例なもので、むしろ戦後の象徴天皇のほうが、伝統的な天皇の姿に近いというのは、よく言われることです。
では、「伝統的な天皇の役割」とは、いったい何か。
松本健一によれば、それは日本という国を「知ろしめす」ことでした。
「日本のあらゆる土地から入ってくる情報を、いわば『あ、そう』と受け入れる存在が天皇であった」(『畏るべき昭和天皇』より)
日本にまつわるあらゆることを知っておくこと。国家のための祭祀を司る存在として、それこそが天皇の最も重要な仕事であったのです。
幕末の勤王家・高山彦九郎が詠んだ
「われを吾としろしめすとや皇のたまのみこえのかかるうれしさ」
という歌には、その天皇の役割がずばり読み込まれていますが、昭和天皇は「あ、そう」と受け入れた情報を、しっかりと記憶し続けることで、伝統的な天皇たらんとしていたのでは、ということです。

天皇晴れ

(リンク先はAmazon)

紹介する本を間違えているのでは、と思われるかもしれませんが、間違えていません。怪談を集めたこの本にも仰天エピソードが載っています。
昭和天皇は「究極の晴れ男」として知られていました。そのことが詳細に書かれているのです。
例えば……
・札幌オリンピックの開会式の日には、朝から小雪がちらついていたものの、開会式直前には空が明るくなり、天皇が会場についた途端、まぶしいくらいに日がさした。
・昭和46年の訪欧の際には、前日に関東へ台風が上陸し、日程への影響が危ぶまれたが、当日は台風一過の快晴となった。
・さらに、アンカレッジへ到着すると、晴れているばかりでなく、みごとなオーロラが現れた。
・ロンドンの到着すると長く降り続いた雨がやみ、「テムズ川の川霧が消えた。空がしみるように青い」と当時報道された。
・一方、日本は天皇が飛び立ってから記録的な長雨が続き、天皇が帰国する日は台風が関東へ接近して横殴りの雨となり、空港は滑走路も見えないほどだった。ところが、着陸直前に雨はやみ、用意された傘が使われることはなかった。台風は進路を変えて去っていった。
・翌年のアメリカ訪問時にも同様の現象が起こった。
ということで、まさに「神がかっている」としか言いようのない晴れ男ぶりです。

そして、この昭和天皇の晴れ男伝説にトドメを刺すのが、大喪の礼でした。
昭和生まれの人は、この時テレビに映った大雨をよく覚えているでしょう。
今上陛下のさす傘がものすごくきれいに水を弾いていて、さすが天皇の傘は違うものだと、当時中学生だった筆者は感嘆したものですが、あの雨は、究極の晴れ男であった昭和天皇を悼むものだったのです。

東京大空襲の視察

昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫
笠原 和夫
(リンク先はAmazon)


ここまでは、神がかったエピソードばかり紹介しましたが、最後は昭和天皇の人間としての一面をうかがい知るエピソードです。
昭和20年3月18日、昭和天皇は東京大空襲の罹災地域を視察します。
一面の焼け野原を、軍服に身を固めた昭和天皇がお付の者を従えて徒歩で視察する姿は写真でもよく知られています。
この行動に対しては、現在に至るも「のんきだ」という批判がありますが、笠原和夫は『昭和の劇』の中で全く違った解釈をしています。

側近たちは皆、この視察に反対したが、昭和天皇の強い希望によって視察は決行された。アメリカの偵察機が上空をブンブンと飛び回る時期であり、もし見つかれば機銃掃射を受けるのは目に見えている。にもかかわらず、当初十数分程度で終えるはずだった視察は、1時間近くにも及び、その間に自動車から降りて歩きまわることまでしている。
これは、昭和天皇が撃たれて死ぬことを望んでいたからではないか? そのような決意のもとに行われた視察だったのではないか?
笠原和夫以外に、このような分析をしている文章を読んだことがなく、また、この発言の出典についても触れられていません。したがって、本当なのかどうかは全くわかりません。
しかし、昭和天皇の内面にも人間的なドラマがあったはずです。それを知ることで、昭和史の見え方もまた変わってくるのではないか。そんなことを考えさせられたエピソードです。

ちなみに、この視察のあいだ、東京上空には一機も現れることはなく、笠原和夫によれば、昭和天皇は「ガッカリして」宮城へ帰ってきたそうです。
ここでもまた、昭和天皇の晴れ男ぶりが発揮されてしまっていたのではないか。そんな気もします。

関連記事:
能條純一『昭和天皇物語』解説


関連コンテンツ