日本では「ああ無情」のタイトルで知られ、子ども向けの名作全集などには必ず収録されるユゴーの「レ・ミゼラブル」。完訳に挑戦しようと思うと、何種類かの文庫が出ており、どれを手に取ろうか迷われるのではないでしょうか。それぞれの訳の特色をまとめてみます。

「レ・ミゼラブル」はフランスの小説家ヴィクトル・ユゴーが19世紀半ばに執筆した大長編です。
貧しさのあまりパンを盗んだジャン・バルジャンが、ミリエル神父との出会いで改心して……と、子ども向けの抄訳などではこの辺のヒューマニズムの部分のみが強調されていたりしますが、全て読んでみると、サスペンスあり、アクションありのエンタテインメントで、退屈することなく読み切ることができます。ただし、一部を除いては。
「一部を除いて」というのは、これは「ノートル=ダム・ド・パリ」など、他の小説にも見られるユゴーの悪癖で、本筋と関係のない歴史や風俗について延々と語り続けている部分があるのです。
例えば、主要登場人物2人が出会うのがワーテルローの戦いのさなかなのですが、それだけのことを書くために、ユゴーが古戦跡を訪れて抱いた感慨から始まり、おもむろに百ページくらい費やして戦いの詳細を綴っていきます。読んでいると、明らかに伏線でもなんでもなく、本筋と全く関係ないことがわかります。
ストーリーを求める読者には退屈極まる部分ですが、しかしユゴーは「これは物語の作者の権利である」と傲然と言い放つのです。
全5部からなりますが、各部の冒頭にこのような文章が入っています。筆者は、この辺はすっ飛ばして読みました。

というわけで、現在入手可能な文庫についてご紹介していきましょう。

岩波文庫版 豊島与志雄・訳


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岩波文庫からは豊島与志雄訳が全4冊で刊行されています。
名訳として読み継がれている豊島訳ですが、最初に刊行されたのは大正期で、さすがに文体の古さは否定できません。(とはいえ、同時代に刊行された他の翻訳家による海外文学と比べれば、圧倒的に読みやすいのですが)
どれくらい古いか?ということを読んでみたければ、実は豊島訳の「レ・ミゼラブル」はまるまる青空文庫にも収録されています。豊島与志雄が亡くなったのがもう60年以上も前なので、訳文の著作権が切れているのです。
というわけで、敢えて豊島訳を読みたい、ということでなければ他の文庫をおすすめしますが、一つ、岩波文庫版には他にない大きな長所があります。それは、挿絵を全て収録していることです。
ミュージカルのポスターにも使用されている少女コゼットのイラストなど、「レ・ミゼラブル」の挿絵は有名であり、作品理解の助けにもなりますが、他の文庫では収録されていません。
ついでに言うと、全巻揃えて最もお安いのも岩波文庫版です。

新潮文庫版 佐藤朔・訳


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新潮文庫版は佐藤朔の訳で全5冊で出ています。
かなり昔から刊行されており、日本では最もよく読まれているスタンダードな訳と言えるでしょう。
ただし、初訳は50年以上前であり、岩波文庫版よりははるかに新しいものの、新訳というわけではありません。また、挿絵もありません。
手に入りやすく、価格も手頃で読みやすい、定番のバージョンです。

ちくま文庫版→平凡社ライブラリー 西永良成・訳



ちくま文庫版は最も新しい訳で、2012年から2014年にかけて全5冊で刊行されました。
筆者はこれで読んだのですが、なぜ完結までに足掛け2年もかかったのか? 事情は特に明らかにされていないのですが、おそらくは訳者の体調不良か何かで、4巻と5巻とのあいだが1年も空いてしまったのです。
順調にスイスイ読んでいた筆者には、この1年は長いものでした。新訳に手を出さず、新潮文庫で読めば良かった、と思ったものです。とはいえ、無事に完結してくれたのでホッとしました。
さすがに最新訳だけあって、文体も読みやすく、注釈も適切に挿入されており、おすすめできます。
難点は、他の文庫に比べてずいぶんとお高いという点ですが、そもそも高価格で有名な、ちくま文庫のファンである筆者にとっては、そこはあまり問題になりませんでした。
岩波文庫に代わる定訳となるかと思っていたものの、残念ながら、あっという間に品切れになってしまっていたのですが、平凡社ライブラリーへ収録されることになったようです。2019年12月より順次刊行されます。1巻目は本体価格1600円ということでやや高めですが、文庫よりもしっかりした造本で、永く書棚を飾るのにふさわしい本になると思います。

角川文庫版 永山 篤一 ・訳

レ・ミゼラブル (上) (角川文庫)
レ・ミゼラブル (下) (角川文庫)

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角川文庫版は完訳ではなく、上下2冊の抄訳です。
本記事の冒頭に書いたとおり、ユゴーの小説は余計な部分が多いため、完訳にこだわらず、抄訳で済ませるのも決して悪くはない選択肢です。実際、ミュージカル版が映画化されたとき、最も売れていたのは角川文庫版でした。
筆者は読んでいないので、どの程度はしょっているのか正確にわかりませんが、パラパラと眺めた印象では、大事なところはきちんと残していますので、ストーリーの全体を追うには不足は無いように思いました。

おまけ 鹿島茂『「レ・ミゼラブル」百六景』(文春文庫)


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さて、岩波文庫以外の文庫には挿絵はついていないのですが、それを補うのにうってつけの本が鹿島茂の『「レ・ミゼラブル」百六景』です。
挿絵の中から百六枚を選び、該当シーンの簡単なあらすじを付したもので、完訳を読みながら手元に置いておくと、挿絵によって読解が助けられ、また忘れかけている前の方のエピソードをすぐに確認できますし、さらに鹿島教授の軽妙な解説で作品理解が深まります。
挿絵全点を収録しているわけではないのですが、岩波文庫版の古い訳には抵抗があるが、挿絵と一緒に作品を楽しみたい、という方にはオススメです。

黒岩涙香『噫無情』

最後に、こちらをご紹介しましょう。


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以前の「モンテ・クリスト伯」の記事の際にも、涙香の「巖窟王」を紹介しましたが、「レ・ミゼラブル」が日本で「ああ無情」のタイトルで知られるようになったのは、明治時代に黒岩涙香が「噫無情」というタイトルで翻案したためです。
「噫無情」は、完訳ではありませんが、冒頭にも書いたような余計な部分はバッサリ切っていますので、内容的にはわかりやすく書き直しています。
とはいえ、明治時代の文章なので、決して読みやすくはありません。
また、登場人物名が日本風に置き換えられ、「戎瓦戎(ジャン・バルジャン)」「蛇兵太(ジャベール)」「手鳴田(テナルディエ)」「小雪(コゼット)」「花子(ファンティーヌ)」という具合になっています。この辺までは良いのですが、エポニーヌが「疣子」、アゼルマが「痣子」というのは、絶妙というか、無茶というか……
まあ、いろいろ話の種にはなりますので、ご興味のある方は原作を読んだ上で挑戦してみてはいかがでしょうか。

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