備忘の都

40年間の読書で得た偏った知識をツギハギしながら、偏った記事をまとめています。同好の士の参考に。

黒岩涙香の「幽霊塔」


竹本健治「涙香迷宮」の影響で、黒岩涙香に興味を持たれる方がいるかも、と思いましたので、涙香の代表作の一つである「幽霊塔」について書いておきます。

涙香の「幽霊塔」が有名になったのは、江戸川乱歩が幼少期に読んで心酔し、同じ「幽霊塔」というタイトルでリライトしたためです。このため、ほぼ同じストーリーで、涙香版と乱歩版との二種類の「幽霊塔」があります。

幽霊塔
江戸川 乱歩
東京創元社
2012-10-25




黒岩涙香が活躍した明治時代には、海外文学を日本へ紹介する際に「翻案」という手法がメインでした。現在のように原文を忠実に日本語へと置き換えるのではなく、日本人に馴染みやすいよう、人名や地名を改め、ストーリーも読みやすい形に改変していました。
涙香は数多くの海外文学を翻案したことで知られ、「モンテ・クリスト伯」を翻案した「巖窟王」、「レ・ミゼラブル」を翻案した「噫無情(ああ、むじょう)」が特に有名です。
「幽霊塔」もそのような翻案の一つです。

ところが、この「幽霊塔」は、どんな作品を原作としているのか、ずっと謎でした。
涙香版「幽霊塔」のまえがきには原作は「ベンヂスン夫人のファントムタワー」と書かれています。ところが、日本中のマニアが探したにも関わらず、このような作家・作品は、どこにも見当たらなかったのです。
涙香の「幽霊塔」をリライトした乱歩も、自作解説で「原作はどうもよくわからない」「これほど面白い小説が(中略)記録にも残っていないのは、まことに不思議というほかはない」と記しています。

その後、何十年にもわたって、この原作を巡ってはさまざまな説が唱えられましたが、ようやく動きが見えたのは80年代に入ってからです。大正時代に浅草で上映された映画のあらすじが「幽霊塔」に酷似していることが発見され、その原作であるウィリアムスンの「灰色の女」という小説こそが原作ではないかとわかったのです。
(話はそれますが、映画のチラシにも「涙香『幽霊塔』の原作」という一文があったそうです。しかし、文学関係者が散々調べてわからなかったことが、なぜ映画配給会社にわかったのか、それはそれで謎です。原作の版権を管理しているエージェントにはわかっていた、ということなのでしょうか。そもそも涙香が正規に翻訳権を得ていたのかどうかもわかりませんが)



こうして原作は特定されたものの、次は原書探しが難航しました。海外の古書店が出品しているのを発見されたのは、21世紀に入ってからでした。
原書の発見から数年経って、論創社から翻訳が出ました。

灰色の女 (論創海外ミステリ)
A.M. ウィリアムスン
論創社
2008-02-01


今や、「灰色の女」の翻訳も出ていますので、本編以上に劇的な、この原作探しの話など、すでに昔話になりました。しかし、この一件は、涙香・乱歩の名とともに永遠に語り継がれることだろうと思います。
なお、このあたりの経緯は「灰色の女」の巻末解説にてミステリ作家の小森健太朗氏が詳しく書いています。実はこの小森氏こそが、「Woman in Grey」を古書で探し出した、最大の功労者なのです。
なお、「灰色の女」の訳者は、岩波文庫でコリンズ「白衣の女」を訳している中島賢二氏です。

ちなみに昨年、宮﨑駿の「カリオストロの城」は乱歩の「幽霊塔」をモチーフにしている、ということで、宮﨑監督のイラスト解説付きの単行本が刊行され、大いに話題になりました。
「幽霊塔」に注目が集まっているタイミングで、「涙香迷宮」によって、黒岩涙香にもスポットが当たる。「幽霊塔」のファンとしては、嬉しい出来事が続いています。

幽霊塔
江戸川 乱歩
岩波書店
2015-06-06


関連記事:
「灰色の女」から乱歩版「幽霊塔」への伝言ゲーム
ポプラ社 少年探偵江戸川乱歩全集45「時計塔の秘密」


「犬神家の一族」は本格か?

201812犬神家の一族295

週刊文春は1985年および2012年の二度にわたって「東西ミステリーベスト100」という企画を発表しています。
これはいずれも、全国の著名なミステリファンや団体へのアンケートを集計したものです。
2012年版が発表された際には、前回から27年も時が経ったにもかかわらず、事前に十分に予想されたこと(=新本格系が躍進したこと、80年代に大ブームだった冒険小説が軒並み順位を下げたこと)以外、たいして変化のない結果となり、それはそれで、驚きをもって受け止められました。

東西ミステリーベスト100
文藝春秋・編
文藝春秋
2013-11-08




ところで、筆者が2012年版のランクを見て一番驚いたことは横溝正史「犬神家の一族」がランクインしていたことです。前回は圏外だったにもかかわらず、今回は39位という結果でした。
ちなみに、横溝正史作品だけを抜き出すと、新旧で以下のとおりになっています。(順位は全体順位)

1985年版
1位 獄門島
7位 本陣殺人事件
42位 悪魔の手毬唄
44位 八つ墓村
69位 蝶々殺人事件

2012年版
1位 獄門島
10位 本陣殺人事件
39位 犬神家の一族
57位 八つ墓村
75位 悪魔の手毬唄

同じ作品が、だいたい同じような位置にいますが、目立つのはやはり「犬神家の一族」の躍進です。以前は圏外だったものが、39位とかなり上まで来ています。
(ちなみに、「蝶々殺人事件」は金田一耕助シリーズではなく、由利麟太郎シリーズの一作です。1985年当時は角川文庫版や春陽文庫版が入手可能であったものが、2012年時点では文庫では読めないマイナー作品となってしまっていたため、順位が落ちたのはやむを得ないでしょう)

「犬神家の一族」は一般的には横溝正史随一の有名作品であり、「本格探偵小説」の代表的な存在とも見なされています。なおかつ、1985年当時は空前の大ヒットとなった映画「犬神家の一族」の原作ということでも記憶も新しかったはずで、むしろ旧ベストで圏外だったことの方が不思議でしょう。

しかし、実は27年前の読者にはこれが当然のことと受け止められていました。
それはひとえに、「犬神家の一族」が本格ではなく、通俗ミステリだと見なされていたためです。

では、いったい通俗ミステリとはなにか?

それを考える前に、一般的な小説について分類を見てみましょう。
現代においても、小説は「純文学」と「大衆文学」とに分けて考えられています。
いわゆる芥川賞と直木賞との違いです。
読者のなかには両者の違いをあまり気にしない方も多くいますが、しかし芥川賞、直木賞ははっきりと区別して選考されています。
では、何を基準に区別しているのでしょう?
純文学は読者に迎合せず、芸術としての文学の可能性を探る、対して、大衆小説は読者の娯楽に供するため書かれる、というようなことがよく言われますが、実際にはもっと単純で、実質的には掲載誌で区別がされています。
「文學界」「新潮」「群像」などは、純文学。
「オール讀物」「小説新潮」「小説現代」などは、大衆小説。
同じ作家が書いても、掲載誌(もしくは編集部)の違いによって、純文学か大衆文学かが区別されているのが実情です。(なお正確に言えば、芥川賞は対象期間中の「雑誌掲載作」、直木賞は「単行本刊行作」を選考対象としています)

話をミステリに戻すと、以前はミステリの世界でも「本格」か「通俗」かは、掲載誌によって区別されていました。
戦前から続く名門「新青年」や、戦後に創刊されやがては乱歩が責任編集をつとめた「宝石」などは、探偵小説専門誌と見なされ、ここに掲載された作品は「本格」。
一方で、「キング」など、時代小説や中間小説など、他ジャンルの娯楽小説も一緒になっている雑誌へ掲載された作品は「通俗」と見なされました。

新旧ベストに現れた横溝作品の掲載誌を見てみましょう。
獄門島 → 宝石
本陣殺人事件 → 宝石
悪魔の手毬唄 → 宝石
八つ墓村 → 前半を新青年、後半を宝石
蝶々殺人事件 → ロック(これも探偵小説専門誌)
犬神家の一族 → キング

ということになります。
なお、横溝正史自身が昭和51年頃に連載されたエッセイ「真説・金田一耕助」の中で選んでいるベストは下記のとおりです。(カッコ内は掲載誌)

1 獄門島(宝石)
2 本陣殺人事件(宝石)
3 犬神家の一族(キング)
4 悪魔の手毬唄(宝石)
5 八つ墓村(新青年→宝石)
6 悪魔が来りて笛を吹く(宝石)
7 仮面舞踏会(宝石にて中絶 のちに書き下ろし)

ここまでは、横溝本人も自信を持ってベストと上げていますが、以下は、順不同で
三つ首塔(小説倶楽部)
夜歩く(大衆小説界)
女王蜂(キング)
の売れ行きが良いが、ベスト10に入れるには躊躇せざるをえない、と書いています。

ご覧のとおり、「犬神家の一族」以外、すべて掲載誌は「宝石」で、ここへ掲載することこそが探偵小説の本流であるという考えが伺われます。
現代読者からすれば「女王蜂」なども非常に横溝正史らしい長編で、探偵小説として堪能できますが、当時にあっては、これは二流の通俗小説と考えられており、それが「躊躇せざるえない」という一文に現れているわけです。

文春の新旧ベストへ話を戻すと、1985年当時、ミステリについて「宝石」は一流、「キング」は二流、という意識を持った投票者がまだまだ健在で、それが「犬神家の一族」のランク外という結果に現れています。
しかし、2012年ともなると、掲載誌を知る読者もほとんどいなくなり、本格か通俗かという意識も薄くなってきています。
それが「犬神家の一族」のランクインという形になったわけなのです。

付記しておくと、横溝正史自選ベストに「犬神家の一族」が入っていますが、決して納得ずくで入れているわけではないように思われます。
エッセイ集「真説・金田一耕助」では、これより少し前の章に「犬神家」の思い出を綴った稿があります。
この中で横溝本人も
「『宝石』とちがって『キング』は大衆雑誌なのだから、ひとつ派手にいきましょう」
「ちかごろ(この小説が)推理小説研究家のあいだで、改めて見直されているようである」
と、発表当時はマニア向けの本格ミステリとしては評価されていなかったことを暗に認めています。



関連記事:
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「ジャングル・ブック」原作を読むなら、おすすめの文庫はどれ? 各社版徹底比較!

ジャングル・ブック MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2016-12-16

(リンク先はAmazon)

昨年夏にCGを駆使したディズニー映画が公開され話題となった「ジャングル・ブック」。
あちこちの文庫から原作の新訳も刊行されました。
この機会に読んでみようという方のために、各文庫の特色をご紹介します。

「ジャングル・ブック」について

まずは、「ジャングル・ブック」とはどんな小説でしょうか?
原作は19世紀末にイギリスの作家ラドヤード・キプリングによって書かれました。キプリングはのちにノーベル文学賞を受賞します。
物語はイギリス統治時代のインドのジャングルが舞台となっています。人間界から離れてジャングルに住む少年モウグリと動物たちとの交流がメインの連作短編集です。
実は原作では、モウグリが登場しないエピソードもいくつか書かれているのですが、日本で刊行されている翻訳のほとんどでは、主人公はモウグリということになっており、それ以外のエピソードは省略されています。
もともとは「The Jungle Book」「The Second Jungle Book」と2冊に分かれて刊行されていますが、その中からモウグリが登場する8篇を選ぶのが、一般的なのです。
また、ディズニー映画でも、かつてのアニメ版、今回の実写版いずれも、やはりモウグリが登場しないエピソードは省略されています。

もちろん、「ジャングル・ブック」全体で最も重要なのはモウグリの物語ですし、また、映画を見て原作も……という方にはこれで十分なわけですが、せっかくだからキプリングの書いた全てを読みたい、という方には、実は選択肢は一つしかありません。

角川文庫『ジャングル・ブック』『ジャングル・ブック2』 山田蘭・訳

それは角川文庫です。
角川文庫版も今回の映画化にあわせて新たに訳出されたものですが、完全訳を原著通り2冊にわけて出しています。それ以外には、これといった特長はないのですが、実は「ジャングル・ブック」の完訳は、過去にもほとんど例がなく、大変な偉業と言ってもよいことなのです。



ジャングル・ブック (2) (角川文庫)
KADOKAWA/角川書店
2016-08-25


新潮文庫『ジャングル・ブック』 田口俊樹・訳

今回の映画化にあわせて、新潮文庫からも新訳が出ましたが、こちらはモウグリの話だけを集めています。
新潮文庫の良い点は、原著の挿絵を収録しているところです。これは、他の文庫にはありません。筆者はこの点が気に入って、新潮文庫版で読みました。
ミステリの翻訳を数多く手がけている田口俊樹氏が訳しているのがちょっと意外です。

ジャングル・ブック(新潮文庫)
ラドヤード・キプリング
新潮社
2016-12-23

文春文庫『ジャングル・ブック』 井上里・訳 金原瑞人・監訳

一方、文春文庫の売りは、児童文学翻訳の第一人者、金原瑞人氏が「監訳」している点でしょう。

ジャングル・ブック (文春文庫)
ラドヤード・キプリング
文藝春秋
2016-06-10


金原瑞人氏は、児童向けの偕成社文庫版についても、こちらはご本人が翻訳されています。
この偕成社文庫版が全2冊にわかれており、「完訳版」と謳っているため、「お、これは完全訳か?」と思ってしまうのですが、実は2冊にわけているだけで、内容はモウグリのエピソードのみです。それぞれの短編については、完訳、ということのようです。まあ、サブタイトルに「オオカミ少年モウグリの物語」とありますので、嘘はついていないのですが、若干紛らわしいです。

ジャングル・ブック―オオカミ少年モウグリの物語〈第1部〉 (偕成社文庫)
ジョセフ・ラドヤード・キップリング
偕成社
1990-08-01


ジャングル・ブック―オオカミ少年モウグリの物語〈第2部〉 (偕成社文庫)
ジョセフ・ラドヤード・キップリング
偕成社
1990-08-25


児童向けの翻訳は、ほかにも岩波少年文庫などいろいろ出ていますが、完全訳はありません。
というわけで、完全訳をお望みなら、角川文庫版を、そうでなければ、お好みで新潮文庫か文春文庫を、というのが本日の結論です。

竹本健治を初めて読む方へおすすめの本を紹介

『涙香迷宮』が、「このミステリーがすごい」をはじめとするミステリの各種年間ベストで上位にランキングされた竹本健治ですが、一冊も読んだことがない、という方も多いのでは。実際のところ、けっこうなミステリ好きでないとなかなか読まない、マニアックな存在と言えるでしょう。一方で、熱狂的なファンが多いことでも知られる作家です。

これから初めて竹本健治を読んでみようという方におすすめの本、これまでの代表作などをまとめてみます。

破格のデビュー

昭和50年代前半に刊行されていた「幻影城」という探偵小説専門雑誌があります。この雑誌が運営していた「幻影城新人賞」を受賞してデビューした作家には、泡坂妻夫、栗本薫、連城三紀彦など、それ以降のミステリブームを支えた錚々たる顔ぶれが並びます。
竹本健治もこの雑誌から昭和52年にデビューしました。それも新人賞ではなく、当時23歳の全く無名の新人でありながらデビュー長編をいきなり連載するという破格の扱いでの登場です。この時連載され、その後単行本にまとめられたのが、日本ミステリ第四の奇書と言われる『匣の中の失楽』です。最近、講談社文庫で新装版が刊行されました。

新装版 匣の中の失楽 (講談社文庫)
竹本 健治
講談社
2015-12-15


この後、ゲーム三部作と呼ばれる『囲碁殺人事件』『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』を発表し、ファンを広げていきます。このゲーム三部作に登場した少年・牧場智久が、その後の竹本健治作品でメインの名探偵となります。(講談社文庫から復刊されています)

(リンク先はいずれもAmazon)




講談社文庫『囲碁殺人事件』には、幻の短編「チェス殺人事件」も収録されます。続刊の『将棋殺人事件』、『トランプ殺人事件』には、書き下ろしの「オセロ殺人事件」「麻雀殺人事件」も収録するとのことです。
三部作の中では、個人的には特に『トランプ殺人事件』の偏執的な暗号が印象に残ります。『涙香迷宮』にも通じる、暗号ミステリの傑作です。

SF・ホラーの代表作

その後、しばらくミステリを離れ、80年代は主にSFやホラーを書いていました。(余談ですがこの頃は、笠井潔もSFを書き、連城三紀彦や泡坂妻夫は恋愛小説を書いて、本格ミステリ作家が浮気をしていた時代でした)

『狂い壁 狂い窓』は、幻想文学というべきかホラーというべきか、なんとも異形の作品ですが、竹本健治の持ち味があふれる作品として、当時、人気がありました。(2018年2月に講談社文庫より復刊予定)

狂い壁 狂い窓 (講談社文庫)
竹本 健治
講談社
2018-02-15


また、SF作品では、「パーミリオンのネコ」シリーズが代表作です。
(リンク先はKindle版。もともとは徳間ノベルスですが、全て絶版。古本で入手可)

【合本版】パーミリオンのネコ
竹本 健治
アドレナライズ
2017-04-05


クー
竹本 健治
アドレナライズ
2014-10-21


鏡面のクー
竹本 健治
アドレナライズ
2014-10-22


SFホラー「腐蝕の惑星」は初め新潮文庫から刊行されましたが、角川ホラー文庫収録時に「腐蝕」と改題されました。2018年1月に当初のタイトルへ戻して角川文庫より復刊されています。

腐蝕の惑星 (角川文庫)
竹本 健治
KADOKAWA
2018-01-25

ミステリへの復帰と超大作

やがて90年代に入ると、久しぶりの大作ミステリ『ウロボロスの偽書』を発表します。これが『匣の中の失楽』に続く代表作とされており、『ウロボロスの基礎論』『ウロボロスの純正音律』の三部作が2000年代までかけて発表されました。
このシリーズは、いずれも竹本健治本人はもちろん、綾辻行人ら、友人の作家や編集者たちが実名で登場します。もちろんフィクションなのですが、現実と非現実との境界を曖昧にしていくという竹本健治の幻術が発揮されるシリーズです。
筆者は個人的に、『ウロボロスの純正音律』を偏愛しています。シリーズの中では最もストレートな本格ミステリなのですが、小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」を真正面からパロディにする試みで、極めて衒学的な議論が延々続きます。シリーズ前2作とは別の意味で、マニアックな趣向を持つミステリ作家たちを大勢登場させる意義がある作品で、それぞれの作家のファンにとっても楽しめると思います。全2作からはほぼ独立しているので、これから読み始めても差し支えはありません。(それぞれ2巻組で、講談社文庫より順次復刊されています。「基礎論」「純正音律」は初の文庫化!)





また、この間に『闇に用いる力学 赤気篇』を発表します。不穏な空気に満ち満ちた幻想的な物語で、超大作の誕生を予感させる一冊です。しかし、そろそろ発表から20年近く経つのに、続編の刊行はされていません。
「黄禍篇」「青嵐篇」も雑誌連載完了後に改めて「赤気篇」から刊行予定とされていますが、今のところは時期もよくわかりません。いずれ完結する日が来たならば、「ウロボロス」シリーズ以上に竹本健治の代表作となることは間違いないと思います。

また、1999年には『入神』という囲碁マンガも発表しました。世間では「ヒカルの碁」が流行っていた時期です。

入神
竹本 健治
南雲堂
1999-09-01


2000年代以降は、短編集や牧場智久シリーズがポツポツと出ていましたが、昨年(2016年)発表されたのが『涙香迷宮』です。これも牧場智久シリーズの一冊となりますが、これまでのシリーズを全く読んでいなくても大した支障はありません。(類子ちゃんって誰?というのがあまり説明されていないことぐらいで、本筋に影響なし)

涙香迷宮 (講談社文庫)
竹本健治
講談社
2018-03-15


というわけで、竹本健治を読んだことがない方が、いきなり『涙香迷宮』を読んでも、大して問題はありません。むしろ、過去の作品を知らない方が、「ここまでとんでもないことをするとは……」という衝撃が大きいかもしれません。あえて事前に何か読んでおきたい、あるいは、この著者に興味を持ったのでほかも読みたい、ということであれば、やはり『匣の中の失楽』でしょう。

関連記事:
竹本健治「ウロボロスの基礎論」の基礎論

「モンテ・クリスト伯」原作を読むなら、おすすめはどれ? 各社版徹底比較!


19世紀フランスの文豪アレクサンドル・デュマの代表作「モンテ・クリスト伯」は、日本では「巖窟王」(巌窟王、岩窟王)のタイトルで親しまれています。
子ども向けの名作全集には必ず収録される定番の小説ですが、原作は岩波文庫版で全7冊にもおよぶ長大な物語です。
無実の罪により、14年の歳月を牢につながれ、恋人を奪われた船乗りのエドモン・ダンテスは、獄中で出会った神父の導きにより脱獄に成功、モンテクリスト島に隠された財宝を手に入れます。そして、大富豪モンテ・クリスト伯爵と名乗り、パリ社交界にデビュー。自分を陥れた者たちに対して復讐劇を繰り広げていくのです。
一つ一つのエピソードがスリリングであり、定期的に山場がありますので、長い小説ではありますが、途中で飽きることはありません。
巨万の富を背景にした伯爵の豪快な金の使い方には、ついつい筒井康隆の「富豪刑事」を思い出してしまい、笑ってしまうほどです。冷酷に一歩一歩計画をすすめる一方、人間的な感情の動き、失われない高潔な精神も見られ、物語に深みを与えています。

そんなわけで、子どもの頃にダイジェスト版を読んだ方も、あるいは全くどんな話なのか知らないという方にもおすすめできる、エンターテインメントの古典です。
とはいえ、完訳やらダイジェスト版やらいろいろ出ているうえ、「モンテ・クリスト伯」と「巖窟王」がどういう関係なのか、という点で混乱もあるようなので、いくつか出ている翻訳を、まとめてみます。

岩波文庫『モンテ・クリスト伯』(全7冊) 山内義雄・訳

モンテ・クリスト伯 7冊美装ケースセット (岩波文庫)
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実は、これだけ有名な作品にもかかわらず、現在、文庫で読める完訳は、岩波文庫版しかありません。過去には、次に紹介する講談社文庫版もありましたが、今は絶版です。
山内義雄訳は日本では定番の訳とされ、永く読み継がれていますが、とはいえ翻訳されたのが戦前のため、やや読みづらい部分もあります。そこが逆に格調高い雰囲気をかもし、名訳であるという評価もあります。
いずれにしても、文庫で手軽に読むのであれば、現時点でこれしか選択肢はありません。電子書籍版もあります。

モンテ・クリスト伯 1 (岩波文庫)
アレクサンドル・デュマ
岩波書店
2014-12-18


講談社文庫『モンテ=クリスト伯』(全5冊) 新庄嘉章・訳

モンテ=クリスト伯 1 (講談社文庫 て 3-1)
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かつては講談社文庫からも全訳が出ていましたが、現在は絶版です。筆者は中学生の頃に購入したこのバージョンで読んでいます。
こちらも割りと古い訳ですが、岩波文庫版よりは、はるかに読みやすいかと思います。
古本であれば容易に入手できます。
また、Kindle版も発売されました。



新井書院『モンテ=クリスト伯爵』 大矢タカヤス・訳

モンテ=クリスト伯爵 (オペラオムニア叢書) (オペラオムニア叢書 1)
アレクサンドル デュマ
新井書院
2012-06-27

リンク先はAmazon商品紹介ページ。

今のところ最も新しい訳は本書です。大矢タカヤス氏は他にもバルザックやヴェルヌの翻訳などをあちこちの出版社で手がけており、信頼できる訳者です。
難点は、一冊にまとまっており、大変な厚さになっていること。電車の中で読んだりするのは少々しんどいかと思います。
また、なぜか横書きで印刷されており、これも読みづらいのでは?という気もしますが、これは慣れの問題でしょう。できるだけ文章を詰め込むための措置でしょうか。単行本ですが、Oxford classicsのようなペーパーバックを模した造本となっており、個人的にはもう少し高級感が欲しかったようにも思います。
このような難点を補って余りあるのが、岩波文庫版よりとにかく読みやすい訳文であること。それから、分厚い単行本ではありますが、価格は3694円+税と、岩波文庫を7冊揃えるより圧倒的に安くなっています。
また、挿絵を収録しているのも大きな魅力です。

『モンテ・クリスト伯』 泉田武二・訳

モンテ・クリスト伯(1)
アレクサンドル・デュマ
グーテンベルク21
2015-04-17


現在、電子書籍のみ入手可能ですが、かつて「講談社スーパー文庫」として、大判の一巻本で出ていたものです。筆者は目を通したことはありませんが、山内義雄訳よりははるかに新しい訳のはずなので、電子書籍に抵抗のない方は、こちらで読むのもアリでしょう。
全5冊で、すべて揃えても、新井書院版よりちょっと安めです。

ダイジェスト版について

「モンテ・クリスト伯」はこれだけ長い小説でありながらほとんど無駄な部分がなく、スラスラと読めますので、読むならやはり完訳がおすすめです。しかし、これだけの長さに挑戦するのもなかなか大変ですので、そんな方は児童向けのダイジェスト版を読んでみてはいかがでしょうか。

モンテ・クリスト伯 (上) (岩波少年文庫 (503))
モンテ・クリスト伯 中 (岩波少年文庫 (504))


児童向けといえども3冊にわかれており、完訳よりは手軽に、しかしたっぷりとこの大長編にトライできます。
訳者の竹村猛は、デュマの作品ではほかに「三銃士」を完訳しており、角川文庫と偕成社文庫とに収録されています。デュマの翻訳については信用できます。

・講談社青い鳥文庫『巖窟王』

巌窟王 (講談社青い鳥文庫)
アレクサンドル デュマ
講談社
1989-05-10


岩波少年文庫よりさらに短く、1冊にまとまっています。訳を担当しているのは矢野徹。「カムイの剣」などの小説や、SFの翻訳などで有名ですが、児童向けの翻訳も手がけており、これもその一冊です。

・集英社 少年少女世界名作の森『巖窟王』
巌窟王―少年少女世界名作の森〈15〉
リンク先はAmazon商品紹介ページ。

集英社の児童向け名作全集の一冊。ポイントは天野喜孝氏の挿絵。筆者は小学生の頃にこの本で、初めてこの物語に触れましたが、天野氏の挿絵は今でも強烈に印象に残っています。

コミック版

あらすじだけを手軽に知りたい、という場合にはコミック化されたものもいくつか出ています。

モンテ・クリスト伯爵 (ジェッツコミックス)
森山絵凪
白泉社
(電子書籍版もあります)




いずれもコンパクトに1冊にまとまっています。
筆者はどちらも読んでいませんが、ジェッツコミックの方は原作ファンからも評判が良いようです。

黒岩涙香『巖窟王』

最後に、こちらをご紹介します。




この小説が日本で「巖窟王」というタイトルで親しまれているのは、明治時代に初めて「モンテ・クリスト伯」を訳した黒岩涙香がこのように名づけたためです。
涙香の訳は「翻案」と言われ、現在のように原著を厳密に訳すのではなく、日本人が読みやすいように人名・地名を日本風に置き換えたり、文章を書き直したりしています(「モンテ・クリスト伯」→「巖窟島伯爵(いわやじま)」)。また、完訳ではなく原作を半分程度にまで刈り込んでいます。
そもそも「巖窟王」という訳題が普及するきっかけとなった本を読んでみたい、という方には、何年か前に出た、はる書房版は印刷もきれいで読みやすく、日本人が初めて接した「モンテ・クリスト伯」を手軽に楽しむことができます。

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筆者:squibbon
幼稚園児の頃から40を過ぎた現在に至るまで読書が趣味。学生時代は読書系のサークルに所属し、現在も出版業界の片隅で禄を食んでいます。
好きな作家:江戸川乱歩、横溝正史、都筑道夫、泡坂妻夫、筒井康隆、山田風太郎、吉村昭。好きな音楽:筋肉少女帯、中島みゆき。好きな映画:笠原和夫、黒澤明、野村芳太郎、クエンティン・タランティーノ、ティム・バートン、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャー。
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