備忘の都

40年間の読書で得た偏った知識をツギハギしながら、偏った記事をまとめています。同好の士の参考に。

山田風太郎の最高傑作5選!?(時代小説編)


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ふつうの作家は「最高傑作」といえば、一つに限られます。評する人ごとに挙げる作品が異なるかもしれませんが、「最高」は一つだけです。
しかし、山田風太郎はふつうの作家ではありません。読むたびに「これぞ最高傑作」と思ってしまい、かといって、それ以前に読んだ作品が色あせて見えるかといえば全くそんなことはなく、5作品くらい挙げないと最高傑作を語れないのです。
というわけで、山田風太郎の全作品を読んでいるわけではないのですが、これまでに読んだ作品の中から「最高傑作」5作をご紹介したいと思います。順不同です。

柳生忍法帖 角川文庫・講談社文庫など

柳生忍法帖 上 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)
柳生忍法帖 下 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)
(リンク先はいずれもAmazon)
「柳生忍法帖」「魔界転生」「柳生十兵衛死す」と続く柳生十兵衛三部作の1作目。
「忍法帖」とタイトルに入りますが、「甲賀忍法帖」などのように忍者同士が戦う話ではありません。会津の暴君に亭主を殺された女7人が柳生十兵衛の助けを借りて復讐に乗り出す……という話で、一応ベースには史実があるようですが、山田風太郎らしい荒唐無稽、ドタバタな展開で、まさに息をつくヒマもありません。
現代のエンターテインメントでもなかなかここまでの面白さを出せるものはなく、最高傑作というにふさわしい華のある一作です。

八犬伝 朝日文庫・廣済堂文庫など

八犬伝〈上〉 (朝日文庫)
八犬伝〈下〉 (朝日文庫)
(リンク先はいずれもAmazon。古本のみ販売)

残念ながら今のところ各版とも品切れなのですが、山田風太郎にしてはマジメな小説と言えるでしょう。
馬琴が北斎へ構想を聞かせるという設定で「八犬伝」のあらすじが紹介される「虚の世界」の章と、馬琴の生活を描く「実の世界」の章とが交互に書かれます。
まず、「虚の世界」。八犬伝は長い長い小説なので、原典はもちろん、現代語訳も読んだ方はほとんどいないでしょう(筆者も学生の頃に岩波文庫版をセットで買ったのですが、20年間積ん読)。そんな物語のダイジェストを天下の山田風太郎が語ってくれるというのですから、それだけでもう最高。とても楽しめるうえ、八犬伝のストーリーもバッチリとマスターできます。
一方、「実の世界」。こちらは馬琴の地味な生活を史実に基づいて描いていきますが、これがまためっぽう面白い。ケチで頑固、偏屈じじいの馬琴が、周囲の迷惑も顧みず、最終的には読者すら顧みることなく、ひたすら物語を紡ぎ続けます。山田風太郎作品とは思えない感動的な展開に涙がこぼれました。
読み終えると、「これぞ最高傑作!」と思うのは間違いないでしょう。
余談ですが、ラストの一文を読んで興奮した筆者はその勢いで、小学生の頃に読みかけて途中で投げ出してしまった「三銃士」を再読しました。こっちも、改めて読むと実に山田風太郎的な痛快な物語で、その点でもこの「八犬伝」には感謝しています。

叛旗兵 廣済堂文庫・徳間文庫・角川文庫など

(リンク先はAmazon Kindle版)
直江兼続を主人公にしている、ということで大河ドラマで「天地人」をやっていた時期に復刊されたりしていましたが、直江兼続は全っ然関係ない!
前田慶次郎ら、直江四天王が馬鹿げた大騒動を繰り広げるだけの話です。家康や政宗、武蔵に小次郎と、あらゆる同時代人を巻き込みつつ、収集のつかない無茶苦茶な展開となっても、エピソードの終わりにはあら不思議、全ての事象が史実通りの結果に収まってしまいます。
明治物にも通じるような、非常に人を喰った、山田風太郎らしさが最高に詰まった傑作といえます。

魔群の通過 角川文庫・ちくま文庫など

魔群の通過―天狗党叙事詩山田風太郎幕末小説集2 (ちくま文庫)
(リンク先はAmazon)
最高傑作がたくさんある、と言いながら、筆者が秘かに「これこそが本当に最高傑作」と思っているのが本作です。
幕末に起こった水戸天狗党の乱を描いた小説です。天狗党を扱った小説として有名なものにはほかに吉村昭の「天狗争乱」があり、こちらも綿密な取材に基づいた名作として人気があるのですが、「魔群の通過」を比べてみると、いかに山田風太郎が天才的な小説家なのかがよくわかります。
山田風太郎は、本書の執筆のために天狗党が辿った途を実地取材したということですが、ただ事実に沿うだけの歴史小説には仕立てず、自由自在に物語を操ります。架空の人物もおりまぜ、そこからいかにもありそうな、しかも天狗党事件の悲惨さをさらにあぶり出すようなエピソードを展開していくのです。
作中に島崎藤村が登場するなど、明治物と同じ手法で同時代人を巻き込みつつ、物語を堪能させてもらえる傑作です。筆者はあまりに感心して、3度も読みました。

妖異金瓶梅 角川文庫など

妖異金瓶梅 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)
(リンク先はAmazon)

「時代小説編」と言いつつ、これはミステリ方面で人気の高い一作です。中国四大奇書の一つとされる「金瓶梅」の世界で起こる事件を描いた連作短編集です。
どういう理由で人気があるのか? それは空前絶後の「意外な犯人」に尽きます。
とはいえ、誰が犯人なのかは読めばすぐにわかります。いったいどういうことか? まあ、読んでみてください。
山田風太郎作品として、というだけではなく、日本ミステリ界において最高レベルの傑作とされています。

関連記事:
山田風太郎の最高傑作5選!?(エッセイ・ノンフィクション編)
ちくま文庫「山田風太郎明治小説全集」収録作品一覧

笠原和夫 シナリオコレクション

前回の記事に引き続き、笠原和夫の話題です。
前回ご紹介した『昭和の劇』を読んでいると、シナリオそのものを読みたいという気になってきます。
実際、映画本編と比べてみると、実はシナリオそのものを読んだ方が、一つ一つのセリフの輪郭がくっきりと浮かび、迫力を感じられます。
笠原和夫ファンは、ぜひシナリオを読んでみることをおすすめします。

とはいえ、実はこれがなかなか難しい。
いくつかのシナリオは公刊されており、どんな形で刊行されているのかさえわかれば、古本屋などで比較的容易に入手できます。
しかし、いったいどんな本、あるいはどの雑誌のどの号に収録されているのか、網羅的にチェックできるものがないため、調べるのは大変です。
筆者は古本屋のサイトなどを定期的に巡回したり、あるいは笠原和夫作品が劇場公開された辺りの雑誌の内容を検索してみるなどして、かなり入手しましたが、しかしこれが刊行された全てとは思えません。
可能であれば、手に入るシナリオは全て読みたいと思っており、今も収集は継続中ですが、同じように笠原和夫のシナリオを探している方のため、参考までに筆者の手元にある笠原和夫のシナリオが収録された書籍・雑誌を発表年代順にご紹介します。

公開年 タイトル
1964年 日本侠客伝 「シナリオ」2015年3月号(高倉健・菅原文太の追悼特集で)
1965年 股旅三人やくざ 『笠原和夫 人とシナリオ』 シナリオ作家協会 2003年11月
1965年 日本侠客伝 関東篇 「キネマ旬報」1971年増刊8.30号(特集:任侠映画傑作選)
1968年 博奕打ち 総長賭博 『笠原和夫 人とシナリオ』
1969年 日本暗殺秘録 『笠原和夫 人とシナリオ』
1971年 博奕打ち いのち札 『笠原和夫 人とシナリオ』
1972年 関東緋桜一家 「シナリオ」1972年4月号
1973年 仁義なき戦い 『仁義なき戦い』 幻冬舎アウトロー文庫 1998年
1973年 仁義なき戦い 広島死闘篇 『仁義なき戦い』
1973年 仁義なき戦い 代理戦争 『仁義なき戦い』
1974年 仁義なき戦い 頂上作戦 『仁義なき戦い』
1974年 あゝ決戦航空隊 『笠原和夫 人とシナリオ』
1975年 県警対組織暴力 『笠原和夫 人とシナリオ』
1976年 やくざの墓場 くちなしの花 「シナリオ」1976年11月号
1980年 二百三高地 「シナリオ」1980年10月号
1982年 大日本帝国 「シナリオ」1982年8月号
1983年 日本海大海戦 海ゆかば 「シナリオ」1983年7月号
1984年 零戦燃ゆ 「シナリオ」1984年9月号
1989年 226 『226 昭和が最も熱く震えた日』 双流社 1989年6月

未映画化シナリオ
1963年 いれずみ決死隊 『昭和の劇』太田出版 2002年11月
1974年 実録・共産党 「映画芸術」2003年春号
1975年 沖縄進撃作戦 『映画はやくざなり』 新潮社 2003年6月
1984年 昭和の天皇 「en-taxi 第29号」2010年

雑誌「シナリオ」は、かつては笠原和夫のホームグランドのような状態で、代表作はだいたい映画公開時に掲載されていますし、エッセイや対談もたくさん載っています。『昭和の劇』に収録されたものもありますが、掲載誌でしか読めないものも多くあります。しかし、エッセイや対談はシナリオ以上に収録された雑誌の号数を調べる方法がなく、困っています。
ただ、古本は非常に入手しやすいです。神保町の矢口書店にはリーズナブルな値付けで大量に置いてありますし、ネット通販でもごろごろ転がっているので、目的の号数さえはっきりしていれば、簡単に見つかります。

また、公刊された書籍・雑誌以外にも、映画制作現場の関係者から流出する台本も古本屋では目にします。
こちらは目的のものを探し出せるかどうかは運次第で、かなり難しいのですが、筆者はたまたま「真田幸村の謀略」(1979年)を矢口書店で見つけて持っています。これは昭和史とは関係ない娯楽時代劇なので、興味が無いといえば全く無いシナリオではあるのですが。

2018年9月追記:
国書刊行会から「笠原和夫傑作選」が刊行されることとなり、笠原和夫の代表作はほぼそこで読めるようになる見込みです。詳しくはこちらの記事をご参照ください。
国書刊行会「笠原和夫傑作選」刊行開始!



関連記事:
笠原和夫を「読む」

笠原和夫を「読む」

「仁義なき戦い」などで知られる映画脚本家・笠原和夫の著作をまとめてみます。
代表的な著作である『昭和の劇』を読むとよくわかりますが、笠原和夫が好んで書いたテーマは、ひとことで言えば「昭和の闇」です。

・ヤクザ……「仁義なき戦い」「日本侠客伝」「博奕打ち総長賭博」など
・戦争……「二百三高地」「大日本帝国」「あゝ決戦航空隊」など
・テロ……「日本暗殺秘録」「226」など
そのほか、未映画化作品の「昭和の天皇」「実録・共産党」など、他の脚本家が恐れをなすようなシナリオも積極的に引き受けています。
笠原和夫の特長として、徹底的な取材があります。リアルな脚本に反映されるのはもちろんのこと、取材の裏話、こぼれ話をエッセイやインタビューなどで遺しており、それが昭和裏面史として格別に面白い読み物となっているのです。
映画好きはもちろんのこと、昭和史が好きな人間には笠原和夫の著作は非常に興味深いものです。

シナリオ関連

2002年末に亡くなった笠原和夫は、最晩年にインタビュー集『昭和の劇』を遺しています。
氏が書いたシナリオについては、この一冊で、すべてが濃密に語られています。
笠原和夫という脚本家を知るために、まず読むべきはこの本です。
どんなネタでも飯の種にしてしまう東映という会社。それに真剣につきあって、傑作をものにする脚本家。その対比の面白さがまずあります。また、冒頭に書いたとおり、脚本製作の背景には昭和史への深く鋭い洞察があります。ともかく全ページ興味深い話題が満載で、この本1冊で何ヶ月か退屈せずに過ごせるくらいです。
筆者が「無人島へ行くとき持っていく1冊」を選ぶとしたら、数千冊の我が家の蔵書から、間違いなく本書を選びます。



(リンク先はAmazon。古本のみ販売)


笠原和夫が書いた主要なシナリオを集めたのが『笠原和夫 人とシナリオ』です。
これは没後に刊行されました。
笠原和夫の真髄を知るには、やはりシナリオそのものを読むのが一番です。作品によっては、映画を見る以上に迫力を感じます。特に「博奕打ち 総長賭博」「あゝ決戦航空隊」は読み応えがあります。
収録作品は以下のとおりです。
「股旅 三人やくざ 秋の章」「博奕打ち 総長賭博」「日本暗殺秘録」「博奕打ち いのち札」「仁義なき戦い 代理戦争」「あゝ決戦航空隊 」「県警対組織暴力」
荒井晴彦による編集後記によれば、「日本暗殺秘録」は、ビデオ化されないだろうから、ということで収録したとのことですが、本書刊行後7年ほど経ってからDVDが発売されて驚きました。
笠原和夫 人とシナリオ
シナリオ作家協会
2003-12

(リンク先はAmazon。古本のみ販売)


シナリオ集としてはほかに、代表作である「仁義なき戦い」シリーズをまとめた本も出ています。



さらに、「仁義なき戦い」執筆時の取材メモをまとめたものも没後に刊行されました。通読するものではありませんが、笠原和夫の偉大さを肌で感じ取れる一冊です。

「仁義なき戦い」調査・取材録集成
笠原 和夫
太田出版
2005-07-09


こちらも没後にまとめられた本ですが、シナリオ制作の極意を語ったもの。
収録されている「秘伝シナリオ骨法十箇条」では北野武映画をシナリオ作法の観点から痛烈に批判して、話題となりました。

映画はやくざなり
笠原 和夫
新潮社
2003-06-01

《エッセイ》

笠原和夫はエッセイもいくつか残しています。
こちらは、数多くのやくざ映画を執筆した氏が、取材を通して知り得たやくざの実像、またそこで出会った男たちについて綴ったもの。やくざ映画ファンには興味深い話題が満載です。

破滅の美学 (ちくま文庫)
笠原 和夫
筑摩書房
2004-02-11


次は自伝的なエッセイです。戦中戦後を通して体験したエリート街道とはほど遠い凄絶な生き方が、その後の笠原作品の根っこにしっかりと横たわっているということがよく理解できます。



次回は、笠原和夫のシナリオが収録された本をご紹介します。

関連記事:
笠原和夫 シナリオコレクション

「二銭銅貨」と「レ・ミゼラブル」

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乱歩のデビュー作「二銭銅貨」に登場する二銭銅貨には、ある細工が施されています。
作中では、その細工というのは、以下のように記述されています。(青空文庫より)
「俺は、昨日君が湯へ行った後で、あの二銭銅貨をもてあそんでいる内に、妙なことには、銅貨のまわりに一本の筋がついているのを発見したんだ。こいつはおかしいと思って、調べて居ると、なんと驚いたことには、あの銅貨が二つに割れたんだ。見給えこれだ」
 彼は、机の抽斗ひきだしから、その二銭銅貨を取出して、丁度、宝丹の容器を開ける様に、ネジを廻しながら、上下に開いた。
「これ、ね、中が空虚からになっている。銅貨で作った何かの容器なんだ。なんと精巧な細工じゃないか、一寸見たんじゃ、普通の二銭銅貨とちっとも変りがないからね。これを見て、俺は思当ったことがあるんだ。俺はいつか、牢破りの名人が用いるという、のこぎりの話を聞いたことがある。それは、懐中時計のゼンマイに歯をつけた、小人島の帯鋸おびのこぎり見た様なものを、二枚の銅貨を擦り減らして作った容器の中へ入れたもので、これさえあれば、どんな厳重な牢屋の鉄の棒でも、何なく切破って脱牢するんだ相だ。なんでも元は外国の泥坊から伝ったものだ相だがね。そこで、俺は、この二銭銅貨も、そうした泥坊の手から、どうかして紛れ出したものだろうと想像したんだ。だが、妙なことはそればかりじゃなかった。というのは、俺の好奇心を、二銭銅貨そのものよりも、もっと挑発した所の、一枚の紙切がその中から出て来たんだ。それはこれだ」

実は、この仕掛けには元ネタがあります。
乱歩関係の評論などを読んでいても、この点に言及されているのを見たことがなかったため、元ネタがあったとは全く知らず、たまたま出くわしたときには非常に驚きました。

その元ネタというのは、日本では「ああ無情」のタイトルで知られるビクトル・ユーゴーの代表作「レ・ミゼラブル」です。
この作品の第三部「マリユス」第八編「邪悪なる貧民」第二十章「待ち伏せ」に以下のような記述があります。(豊島与志雄訳・青空文庫より)
ゴルボー屋敷におけるこの待ち伏せの後に間もなく行なわれた裁判所の調査によれば、二つに切り割って特殊な細工を施した大きな一スー銅貨が、臨検の警官によってその屋根部屋やねべやの中に見い出されたのだった。その大きな銅貨は、徒刑場の気長い仕事によって暗黒な用途のために暗黒の中で作り出される驚くべき手工品の一つであり、破獄の道具にほかならない驚くべき品物の一つだった。異常な技術に成ったそれらの恐るべき微妙な作品が宝石細工に対する関係は、あたかも怪しい隠語の比喩ひゆが詩に対する関係と同じである。言語のうちにヴィヨンのごとき詩人らがあると同じく、徒刑場のうちにはベンヴェヌート・チェリーニのごとき金工らがおる。自由にあこがれてる不幸な囚人は、時とすると別に道具がなくても、包丁や古ナイフなどで、二枚の薄い片に一スー銅貨を切り割り、貨幣の面には少しもきずがつかないように両片をくりぬき、その縁に螺旋条らせんじょうをつけて、また両片がうまく合わさるようにこしらえることがある。それは自由にねじ合わせたりねじあけたりできるもので、一つの箱となっている。箱の中には時計の撥条ぜんまいが隠されている。そしてその撥条をうまく加工すると、大きな鎖でも鉄の格子こうしでも切ることができる。その不幸な囚徒はただ一スー銅貨しか持っていないように思われるが、実は自由を所有してるのである。ところで、後に警察の方で捜索をした時、その部屋へやの窓に近い寝台の下で見いだされた、二つの片に開かれてる大きな一スー銅貨は、そういう種類のものであった。
ご覧のとおり、ここに出てくる「一スー銅貨」には、乱歩の「二銭銅貨」と全く同じ細工が施してあります。
そして、乱歩と「レ・ミゼラブル」といえば、当然連想されるのは、黒岩涙香による翻案「噫無情」です。涙香は、該当箇所をどのように訳したでしょうか。九十九章「陥穽 七」に以下の記述があります。(はる書房『噫無情』後篇より)
縄を切るのは、特別に其の術が有るのだ、是れは多年牢屋の中に居て、 囚人の學問を卒業した人で無くては知らぬ、白翁が繩を切たは、 其の術を心得て居たに違ひ無い、其の次第は後で分つた、 此のち警察で取調べたとき、此家の番人が警察署へ一の參考品を差出した、其れは此室に落て居たと云ふので、一個の二錢銅貨である、銅貨の中へ、繩でも木でも或は鐵をでも切る鋭い刄物を隱すのが、囚人の術なんだ。
見た所は一枚の銅貨だけれど、實は二枚を合せた者だ、一枚は其の裏を摺り減し、一枚は其の表を摺り減し、二枚ともに半枚の薄さと爲して之を合せて丁度一枚の銅貨が出來る、其の合せ目は、上の一枚を雄旋とし下の一枚を雌旋として、容易に開ぬ樣に堅密に旋合せて有る、凡そ世に是れほど精巧な細工は少い、けれど長く牢に居る囚人の中には此細工を覺える者が隨分ある、爾して上の一枚と下の一枚との間を抉り、空虚と爲して其の所へ時計の發條を入れて有る、云はゞ銅貨の錫を藥入れの樣に作り其の中へ凶器を隱すのだ、時計の發條が凶器なんだ、昔しから囚人の中には、針一本あれば歐羅巴の何の樣な獄をでも破ると斷言した程の者も有る、時計の發條は鍛へ抜た鐵だから、之に刄はを附ければ、刄物にも鋸にも鑢にも代用が出來る、場合に依りては人を殺すことも出來ぬとは限らぬ、老巧な囚人に取ては凶器の上の凶器なんだ。
ビンゴ!というわけで、「二銭銅貨」が出てきました。乱歩はこの記述を参考にしたものと思われます。「牢破りの名人」「時計のゼンマイ」というキーワードが全てに共通し、また、涙香が「薬入れ」と書き、乱歩が「宝丹の容器」と書いている点でも、間違いないでしょう。
ここまで同じ表現をしているということは、乱歩には引用元を隠す意図はなかったのではないかとも思われます。
ちなみに実際に流通していた2銭銅貨は、発行時期は明治6年から明治17年と短かったものの、昭和28年まで通貨として使用できたものであり、涙香も乱歩も同じ銅貨を指しています。

「二銭銅貨」も「レ・ミゼラブル」も「噫無情」も、いずれも非常に有名な作品なのに、誰も気づいていないのか、あるいは実際にはよく知られていることなのか、いずれにしてもほとんど語られていないのが不思議なのですが、ここでご紹介しておきたいと思います。


「レ・ミゼラブル」原作を読むなら、おすすめの文庫はどれ? 各社版徹底比較!

日本では「ああ無情」のタイトルで知られ、子ども向けの名作全集などには必ず収録されるユゴーの「レ・ミゼラブル」。完訳に挑戦しようと思うと、何種類かの文庫が出ており、どれを手に取ろうか迷われるのではないでしょうか。それぞれの訳の特色をまとめてみます。

「レ・ミゼラブル」はフランスの小説家ヴィクトル・ユゴーが19世紀半ばに執筆した大長編です。
貧しさのあまりパンを盗んだジャン・バルジャンが、ミリエル神父との出会いで改心して……と、子ども向けの抄訳などではこの辺のヒューマニズムの部分のみが強調されていたりしますが、全て読んでみると、サスペンスあり、アクションありのエンタテインメントで、退屈することなく読み切ることができます。ただし、一部を除いては。
「一部を除いて」というのは、これは「ノートル=ダム・ド・パリ」など、他の小説にも見られるユゴーの悪癖で、本筋と関係のない歴史や風俗について延々と語り続けている部分があるのです。
例えば、主要登場人物2人が出会うのがワーテルローの戦いのさなかなのですが、それだけのことを書くために、ユゴーが古戦跡を訪れて抱いた感慨から始まり、おもむろに百ページくらい費やして戦いの詳細を綴っていきます。読んでいると、明らかに伏線でもなんでもなく、本筋と全く関係ないことがわかります。
ストーリーを求める読者には退屈極まる部分ですが、しかしユゴーは「これは物語の作者の権利である」と傲然と言い放つのです。
全5部からなりますが、各部の冒頭にこのような文章が入っています。筆者は、この辺はすっ飛ばして読みました。

というわけで、現在入手可能な文庫についてご紹介していきましょう。

岩波文庫版 豊島与志雄・訳


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岩波文庫からは豊島与志雄訳が全4冊で刊行されています。
名訳として読み継がれている豊島訳ですが、最初に刊行されたのは大正期で、さすがに文体の古さは否定できません。(とはいえ、同時代に刊行された他の翻訳家による海外文学と比べれば、圧倒的に読みやすいのですが)
どれくらい古いか?ということを読んでみたければ、実は豊島訳の「レ・ミゼラブル」はまるまる青空文庫にも収録されています。豊島与志雄が亡くなったのがもう60年以上も前なので、訳文の著作権が切れているのです。
というわけで、敢えて豊島訳を読みたい、ということでなければ他の文庫をおすすめしますが、一つ、岩波文庫版には他にない大きな長所があります。それは、挿絵を全て収録していることです。
ミュージカルのポスターにも使用されている少女コゼットのイラストなど、「レ・ミゼラブル」の挿絵は有名であり、作品理解の助けにもなりますが、他の文庫では収録されていません。
ついでに言うと、全巻揃えて最もお安いのも岩波文庫版です。

新潮文庫版 佐藤朔・訳


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新潮文庫版は佐藤朔の訳で全5冊で出ています。
かなり昔から刊行されており、日本では最もよく読まれているスタンダードな訳と言えるでしょう。
ただし、初訳は50年以上前であり、岩波文庫版よりははるかに新しいものの、新訳というわけではありません。また、挿絵もありません。
手に入りやすく、価格も手頃で読みやすい、定番のバージョンです。

ちくま文庫版→平凡社ライブラリー 西永良成・訳



ちくま文庫版は最も新しい訳で、2012年から2014年にかけて全5冊で刊行されました。
筆者はこれで読んだのですが、なぜ完結までに足掛け2年もかかったのか? 事情は特に明らかにされていないのですが、おそらくは訳者の体調不良か何かで、4巻と5巻とのあいだが1年も空いてしまったのです。
順調にスイスイ読んでいた筆者には、この1年は長いものでした。新訳に手を出さず、新潮文庫で読めば良かった、と思ったものです。とはいえ、無事に完結してくれたのでホッとしました。
さすがに最新訳だけあって、文体も読みやすく、注釈も適切に挿入されており、おすすめできます。
難点は、他の文庫に比べてずいぶんとお高いという点ですが、そもそも高価格で有名な、ちくま文庫のファンである筆者にとっては、そこはあまり問題になりませんでした。
岩波文庫に代わる定訳となるかと思っていたものの、残念ながら、あっという間に品切れになってしまっていたのですが、平凡社ライブラリーへ収録されることになったようです。2019年12月より順次刊行されます。1巻目は本体価格1600円ということでやや高めですが、文庫よりもしっかりした造本で、永く書棚を飾るのにふさわしい本になると思います。

角川文庫版 永山 篤一 ・訳

レ・ミゼラブル (上) (角川文庫)
レ・ミゼラブル (下) (角川文庫)

(リンク先はいずれもAmazon)

角川文庫版は完訳ではなく、上下2冊の抄訳です。
本記事の冒頭に書いたとおり、ユゴーの小説は余計な部分が多いため、完訳にこだわらず、抄訳で済ませるのも決して悪くはない選択肢です。実際、ミュージカル版が映画化されたとき、最も売れていたのは角川文庫版でした。
筆者は読んでいないので、どの程度はしょっているのか正確にわかりませんが、パラパラと眺めた印象では、大事なところはきちんと残していますので、ストーリーの全体を追うには不足は無いように思いました。

おまけ 鹿島茂『「レ・ミゼラブル」百六景』(文春文庫)


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さて、岩波文庫以外の文庫には挿絵はついていないのですが、それを補うのにうってつけの本が鹿島茂の『「レ・ミゼラブル」百六景』です。
挿絵の中から百六枚を選び、該当シーンの簡単なあらすじを付したもので、完訳を読みながら手元に置いておくと、挿絵によって読解が助けられ、また忘れかけている前の方のエピソードをすぐに確認できますし、さらに鹿島教授の軽妙な解説で作品理解が深まります。
挿絵全点を収録しているわけではないのですが、岩波文庫版の古い訳には抵抗があるが、挿絵と一緒に作品を楽しみたい、という方にはオススメです。

黒岩涙香『噫無情』

最後に、こちらをご紹介しましょう。


(リンク先はいずれもAmazon)

以前の「モンテ・クリスト伯」の記事の際にも、涙香の「巖窟王」を紹介しましたが、「レ・ミゼラブル」が日本で「ああ無情」のタイトルで知られるようになったのは、明治時代に黒岩涙香が「噫無情」というタイトルで翻案したためです。
「噫無情」は、完訳ではありませんが、冒頭にも書いたような余計な部分はバッサリ切っていますので、内容的にはわかりやすく書き直しています。
とはいえ、明治時代の文章なので、決して読みやすくはありません。
また、登場人物名が日本風に置き換えられ、「戎瓦戎(ジャン・バルジャン)」「蛇兵太(ジャベール)」「手鳴田(テナルディエ)」「小雪(コゼット)」「花子(ファンティーヌ)」という具合になっています。この辺までは良いのですが、エポニーヌが「疣子」、アゼルマが「痣子」というのは、絶妙というか、無茶というか……
まあ、いろいろ話の種にはなりますので、ご興味のある方は原作を読んだ上で挑戦してみてはいかがでしょうか。

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筆者:squibbon
幼稚園児の頃から40を過ぎた現在に至るまで読書が趣味。学生時代は読書系のサークルに所属し、現在も出版業界の片隅で禄を食んでいます。
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