備忘の都

40年間の読書で得た偏った知識をツギハギしながら、偏った記事をまとめています。同好の士の参考に。

昭和天皇

能條純一『昭和天皇物語』解説

201711昭和天皇物語146

「哭きの竜」で有名な能條純一の新作は、なんと昭和天皇が主人公!
大作となる予感がビンビンするシリーズの1巻目が出ていますが、昭和天皇ファンの筆者としても見逃すわけにはいきません。

(追記:2巻の予約がAmazonで始まっていました。3月末発売予定です)
昭和天皇物語(2): ビッグ コミックス
能條純一 半藤一利 永福一成
小学館
2018-03-30



半藤一利「昭和史」(平凡社)が原作ということになっていますが、「昭和史」には出てこないエピソードも描かれています。
どちらかといえば、福田和也「昭和天皇」(全7冊・文藝春秋)の方が近い内容です。





とはいえ、この漫画はわりと有名なエピソードをつないでいる印象がありますので、どれが原作ということにはあまりこだわらなくて良いようにも思います。半藤さんが監修、という程度のものでしょう。
昭和天皇ファンが読んでいると、にやりとさせられるシーンが散りばめられていますので、気がついたことをいくつか解説していきたいと思います。

マッカーサー・昭和天皇会見

マッカーサーと昭和天皇との会見シーンから物語は始まります。
マッカーサーがポケットに手を突っ込み、リラックスした態度で立っている横で、モーニングを着た昭和天皇が直立不動している姿は、「敗戦」という事実を国民に見せつけ、衝撃を与えました。
この会見で昭和天皇が「全責任は私にある」という発言をした、というのはマッカーサーが後に回想録で明かした有名なエピソードで、本作でも採用されています。
ところが、この「伝説」は眉唾ものだという説もあります。
昭和天皇は没後に公刊された「昭和天皇独白録」のなかで自身の戦争責任を否定する内容の発言をしており、マッカーサーに対する発言と矛盾しています。このエピソードは、昭和天皇の人柄に惚れたマッカーサーの、リップサービスだったのでは、とも考えられています。また、そもそも天皇の免責は戦後政策をスムーズに進めるための連合国側の方針でもあり、マッカーサーの一存ではありません。
昭和天皇自身は、後にこの会見の内容を質問された際には「マッカーサーとの男の約束で、内容は明かせない」と答えています。





足立タカ

足立タカは幼稚園教諭から迪宮(のちの昭和天皇)の養育係に抜擢され、お役目を退いたのちに鈴木貫太郎の後添えとなります。
鈴木貫太郎は海軍大将にまで上り詰めた軍人で、退役後は侍従長として昭和天皇に仕え、2・26事件で銃撃を受けましたが、一命をとりとめます。この時はタカの機転が夫の命を救っています。
鈴木貫太郎はやがて太平洋戦争末期に首相となり、国を終戦へと導く大仕事を任されます。
このように、何度も危機を共にした鈴木貫太郎・タカ夫妻のことを、昭和天皇は晩年のインタビューで実の親のように思っていたと答えています。人間としての昭和天皇を語る上で、足立タカの登場は不可欠です。
なお、本作ではタカとの会話の中で「雑草という草はありません」というやりとりが出てきます。
この会話は実際には、侍従武官長だった阿南惟幾(終戦内閣の陸軍大臣)が昭和天皇からいわれた言葉だとされています。本作では、幼少期にあったタカとのやりとりを、阿南に対して再現したものだ、ということにしているのでしょう。

秩父宮

昭和天皇が相撲好きだったというのも有名なエピソードです。戦後も天覧相撲で目を細めている姿がテレビでよく見られたものですが、幼少期も相撲を取ることが好きだったと言われています。
笠原和夫が書いた未映画化シナリオ「昭和の天皇」は淳宮(のちの秩父宮=昭和天皇の弟)と迪宮とが相撲をとっているシーンから始まります。
これは「相撲好き」を示唆する以外にもいろいろと象徴的なシーンなのですが、昭和天皇と秩父宮の「不和」ということは、真偽はともかくとしてずっと語られていることです。
笠原和夫などは「2・26事件は昭和に起こった壬申の乱だ」とまで言っていますが、2・26事件や三国同盟、終戦などあらゆる歴史的なシーンにおいて、背後にこの問題があるのではないかと言われます。
本作でも、活発な弟を溺愛する母(貞明皇后)が描かれており、不穏な空気を醸しています。

乃木希典

乃木希典が殉死の直前に、迪宮へ山鹿素行「中朝事実」を奉呈したエピソードもよく知られています。
この件について、昭和42年に当時の運輸大臣・中曽根康弘が昭和天皇へ直接、質問したことがあります。
「司馬遼太郎の『殉死』という小説の中に乃木大将が『中朝事実』の話をしたということが書いてありますが、そういうことはあったのでございましょうか」
と尋ねたところ
「記憶は定かではないけれども、もしそういうことが書いてあるならば、あったかもしれない」
ということだったそうです。
中曽根はのちに、宮内庁長官に尋ねて、この本が宮中の書陵部で保管されていることを発見したそうです。文春文庫から出ていた「陛下の御質問」という本に書いてあります。


大正天皇

東郷平八郎が謁見した際、大正天皇が手で遠眼鏡を作るシーンが描かれていますが、これは大正天皇の「遠眼鏡事件」を念頭に置いたものと思われます。
大正天皇は「病弱で暗愚であった」というイメージが流布していますが、そのときによく挙げられるエピソードです。とは言え、この事件自体、風説であるという説が現在では有力です。



この記事は、続刊が出たらまた次を書きたいと思います。

昭和天皇物語 1 (ビッグコミックス)
能條 純一
小学館
2017-10-30


昭和天皇物語 2 (ビッグコミックス)
能條 純一
小学館
2018-03-30


能條純一『昭和天皇物語 2』解説
昭和天皇の驚きエピソード――「あっそう」に込められた意味
二・二六事件をめぐる怪談

終戦を読む

201708機関銃下の首相官邸110

昭和史はさまざまな切り口から本が書かれていますが、筆者はその中でも「終戦」に焦点を当てたものが好きでよく読んでいます。
敗色が濃厚になってから、いやそれどころか日米開戦の時点から、この事態に終止符を打つため各所でさまざまな努力があったわけですが、そのほぼ全てのドラマが昭和20年8月に濃縮されている点に、本読みとしての興味をそそられます。
また、2度の原爆投下という人類史上例を見ない惨事も、戦争指導者たちにとっては日本を取り巻く戦況の一つでしか無かったということがまざまざとわかり恐ろしさも感じます。

8月15日へ向けた政府内の攻防の中心にいたのは、言うまでもなく昭和天皇ですが、「終戦本」のほとんどは昭和天皇、首相・鈴木貫太郎、陸軍大臣・阿南惟幾、海軍大臣・米内光政を中心に描かれています。
これらの人物を中心に本を紹介していきましょう。



まずは定番中の定番、半藤一利「日本のいちばん長い日」。
これは、終戦に至る意思決定の過程、終戦の詔勅を巡るやりとり、そして反乱将校が玉音盤奪取を企図した宮城事件を群像劇として描いたものです。
半藤一利が文藝春秋の編集者だった昭和40年に書かれたもので、著者として大宅壮一の名義を借りて刊行されました。それから約30年後の平成7年に半藤一利名義に戻して再刊されたのがこの「決定版」です。
執筆姿勢は当時から変わらず、取材や信用できる史料をもとに丁寧な語り口です。終戦本の入門書にして最高傑作と言えます。
なお、この作品は昭和42年に岡本喜八監督によって映画化されていますが、延々と会議のシーンだけが続く地味な絵柄にもかかわらず、ド迫力の映画です。筆者は原作より先にこの映画を観ていたため、なおのこと原作まで面白いと感じてしまっているのかなあ、という気もします。

半藤さんの著作にはほかに昭和天皇と鈴木貫太郎に焦点を当てた「聖断」もあります。




次に、終戦内閣で書記官長(今の官房長官)を務めていた迫水久常の「機関銃下の首相官邸」。



226事件発生時の首相・岡田啓介元海軍大将は迫水の岳父であり、事件に際しては、迫水の機転によって九死に一生を得ています。
岡田は同じ海軍出身の鈴木貫太郎が組閣を命じられると、実務に長けた迫水を送り込みます。
本書は226事件および終戦についての本人の回想録ですが、これがもうかなり面白い内容です。
当事者によって事件の流れが明かされる貴重な証言と言えますが、ちょっとしたこぼれ話も印象に残ります。
例えば、終戦の詔勅は安岡正篤が文案を作ったとのことですが、この中にあった「義命の存する所」という表現が難解だということで閣議で問題となり、結局「時運の趨く所」と変更されてしまいますが、安岡はこの点について戦後長らくたっても迫水に嫌味を言い続けていたのだそうです。
また、戦争中とはいえ、政府はやはり法律に基づいて粛々と書類手続きを進める役所であり、事務に精通した迫水の知恵が、鈴木貫太郎の終戦への意思を協力にサポートします。この辺のエピソードもいろいろ興味深いものです。
岡本喜八監督版の映画「日本のいちばん長い日」では加藤武が迫水を演じていますが、能吏ぶりが伝わる演技でした。



終戦内閣において、徹底抗戦を主張し、海軍大臣・米内光政らと激しく対立したのが陸軍大臣・阿南惟幾です。
阿南の主張は、陸軍の暴走を抑えるための「腹芸」だったというのが定説となっていますが、本書も腹芸説をもとに阿南の真の姿に迫ります。阿南について書かれた本の決定版です。
映画「日本のいちばん長い日」では、三船敏郎が演じており、事実上の主役扱いでした。
今際の際に叫んだとされる「米内を斬れ!」という一言は、本書を読んでもやっぱり謎のままですが。



海軍随一のリベラリストと知られた米内光政の評伝です。「山本五十六」に始まる、阿川弘之海軍三部作の2作目です。
米内の活躍は終戦内閣のときだけではないため、本書において終戦を巡るシーンの比重はそれほどでもありませんが、米内の人柄を綿密に書き込んでいる本です。

さて、ここまでは「終戦内閣バンザイ本」ばかり紹介してきました。
筆者としては、この内閣は本当に奇跡的な人選で、今の政治家にもこれくらいの気骨があれば……と思っているのですが、このような捉え方は単なる「神話」だという主張もあります。
例えば、NHK出版から出た「終戦史」は、2012年に放映されたNHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」を書籍化したものです。

終戦史 なぜ決断できなかったのか
吉見 直人
NHK出版
2013-07-25


筆者にとってヒーローばかりだった終戦内閣のメンバーが、本書の中では決断を遅らせ、原爆投下・ソ連参戦という避けることのできた悲劇を招いた当事者として、徹底的に糾弾されます。
そこまで意地悪な目で見なくても……と思う部分もなくはないのですが、徹底した取材に基づく説得力のある主張であり、やっぱり本というものは、色んな視点のものを読む必要があるなあ、ということを改めて思わされた一冊でした。

昭和天皇の驚きエピソード――「あっそう」に込められた意味

20170402昭和天皇062

筆者は昭和史に興味を持つより先に、昭和天皇のファン(?)として昭和天皇について書かれた本を読みあさっていた時期があります。
読み物として非常に面白いものがたくさんあり、読書好きにとっては金脈の一つだと思っていますが、今回は本の紹介ではなく、本を読む中で知った、昭和天皇のエピソードをいくつかご紹介したいと思います。

記憶の王

(リンク先はAmazon)
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松本健一は昭和天皇について書かれた著書をいくつか遺していますが、その中で昭和天皇のことを「記憶の王」と呼んでいます。
昭和天皇の記憶力が異常に良かったということは、側近たちの日記などいくつもの史料から確認することができるそうで、『昭和天皇伝説』『畏るべき昭和天皇』のなかでは、昭和天皇の記憶にまつわるさまざまなエピソードが紹介されています。
また、昭和天皇の口癖として「あ、そう」という言葉がよく知られています。
園遊会などの様子をテレビで見ると「あっそう」を連発していたものですが、松本健一は、この口癖と、異常な記憶力とは、いずれも昭和天皇が伝統的な天皇のあるべき姿に忠実であろうとした結果だと分析しています。

どういうことか。

明治維新後の統治権・統帥権を総攬する国家元首としての天皇は、古代から続く天皇の歴史においては異例なもので、むしろ戦後の象徴天皇のほうが、伝統的な天皇の姿に近いというのは、よく言われることです。
では、「伝統的な天皇の役割」とは、いったい何か。
松本健一によれば、それは日本という国を「知ろしめす」ことでした。
「日本のあらゆる土地から入ってくる情報を、いわば『あ、そう』と受け入れる存在が天皇であった」(『畏るべき昭和天皇』より)
日本にまつわるあらゆることを知っておくこと。国家のための祭祀を司る存在として、それこそが天皇の最も重要な仕事であったのです。
幕末の勤王家・高山彦九郎が詠んだ
「われを吾としろしめすとや皇のたまのみこえのかかるうれしさ」
という歌には、その天皇の役割がずばり読み込まれていますが、昭和天皇は「あ、そう」と受け入れた情報を、しっかりと記憶し続けることで、伝統的な天皇たらんとしていたのでは、ということです。

天皇晴れ

(リンク先はAmazon)

紹介する本を間違えているのでは、と思われるかもしれませんが、間違えていません。怪談を集めたこの本にも仰天エピソードが載っています。
昭和天皇は「究極の晴れ男」として知られていました。そのことが詳細に書かれているのです。
例えば……
・札幌オリンピックの開会式の日には、朝から小雪がちらついていたものの、開会式直前には空が明るくなり、天皇が会場についた途端、まぶしいくらいに日がさした。
・昭和46年の訪欧の際には、前日に関東へ台風が上陸し、日程への影響が危ぶまれたが、当日は台風一過の快晴となった。
・さらに、アンカレッジへ到着すると、晴れているばかりでなく、みごとなオーロラが現れた。
・ロンドンの到着すると長く降り続いた雨がやみ、「テムズ川の川霧が消えた。空がしみるように青い」と当時報道された。
・一方、日本は天皇が飛び立ってから記録的な長雨が続き、天皇が帰国する日は台風が関東へ接近して横殴りの雨となり、空港は滑走路も見えないほどだった。ところが、着陸直前に雨はやみ、用意された傘が使われることはなかった。台風は進路を変えて去っていった。
・翌年のアメリカ訪問時にも同様の現象が起こった。
ということで、まさに「神がかっている」としか言いようのない晴れ男ぶりです。

そして、この昭和天皇の晴れ男伝説にトドメを刺すのが、大喪の礼でした。
昭和生まれの人は、この時テレビに映った大雨をよく覚えているでしょう。
今上陛下のさす傘がものすごくきれいに水を弾いていて、さすが天皇の傘は違うものだと、当時中学生だった筆者は感嘆したものですが、あの雨は、究極の晴れ男であった昭和天皇を悼むものだったのです。

東京大空襲の視察

昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫
笠原 和夫
(リンク先はAmazon)


ここまでは、神がかったエピソードばかり紹介しましたが、最後は昭和天皇の人間としての一面をうかがい知るエピソードです。
昭和20年3月18日、昭和天皇は東京大空襲の罹災地域を視察します。
一面の焼け野原を、軍服に身を固めた昭和天皇がお付の者を従えて徒歩で視察する姿は写真でもよく知られています。
この行動に対しては、現在に至るも「のんきだ」という批判がありますが、笠原和夫は『昭和の劇』の中で全く違った解釈をしています。

側近たちは皆、この視察に反対したが、昭和天皇の強い希望によって視察は決行された。アメリカの偵察機が上空をブンブンと飛び回る時期であり、もし見つかれば機銃掃射を受けるのは目に見えている。にもかかわらず、当初十数分程度で終えるはずだった視察は、1時間近くにも及び、その間に自動車から降りて歩きまわることまでしている。
これは、昭和天皇が撃たれて死ぬことを望んでいたからではないか? そのような決意のもとに行われた視察だったのではないか?
笠原和夫以外に、このような分析をしている文章を読んだことがなく、また、この発言の出典についても触れられていません。したがって、本当なのかどうかは全くわかりません。
しかし、昭和天皇の内面にも人間的なドラマがあったはずです。それを知ることで、昭和史の見え方もまた変わってくるのではないか。そんなことを考えさせられたエピソードです。

ちなみに、この視察のあいだ、東京上空には一機も現れることはなく、笠原和夫によれば、昭和天皇は「ガッカリして」宮城へ帰ってきたそうです。
ここでもまた、昭和天皇の晴れ男ぶりが発揮されてしまっていたのではないか。そんな気もします。

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筆者:squibbon
幼稚園児の頃から40を過ぎた現在に至るまで読書が趣味。学生時代は読書系のサークルに所属し、現在も出版業界の片隅で禄を食んでいます。
好きな作家:江戸川乱歩、横溝正史、都筑道夫、泡坂妻夫、筒井康隆、山田風太郎、吉村昭。好きな音楽:筋肉少女帯、中島みゆき。好きな映画:笠原和夫、黒澤明、野村芳太郎、クエンティン・タランティーノ、ティム・バートン、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャー。
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