備忘の都

40年間の読書で得た偏った知識をツギハギしながら、偏った記事をまとめています。同好の士の参考に。

噫無情

「二銭銅貨」と「レ・ミゼラブル」

20170122噫無情031

乱歩のデビュー作「二銭銅貨」に登場する二銭銅貨には、ある細工が施されています。
作中では、その細工というのは、以下のように記述されています。(青空文庫より)
「俺は、昨日君が湯へ行った後で、あの二銭銅貨をもてあそんでいる内に、妙なことには、銅貨のまわりに一本の筋がついているのを発見したんだ。こいつはおかしいと思って、調べて居ると、なんと驚いたことには、あの銅貨が二つに割れたんだ。見給えこれだ」
 彼は、机の抽斗ひきだしから、その二銭銅貨を取出して、丁度、宝丹の容器を開ける様に、ネジを廻しながら、上下に開いた。
「これ、ね、中が空虚からになっている。銅貨で作った何かの容器なんだ。なんと精巧な細工じゃないか、一寸見たんじゃ、普通の二銭銅貨とちっとも変りがないからね。これを見て、俺は思当ったことがあるんだ。俺はいつか、牢破りの名人が用いるという、のこぎりの話を聞いたことがある。それは、懐中時計のゼンマイに歯をつけた、小人島の帯鋸おびのこぎり見た様なものを、二枚の銅貨を擦り減らして作った容器の中へ入れたもので、これさえあれば、どんな厳重な牢屋の鉄の棒でも、何なく切破って脱牢するんだ相だ。なんでも元は外国の泥坊から伝ったものだ相だがね。そこで、俺は、この二銭銅貨も、そうした泥坊の手から、どうかして紛れ出したものだろうと想像したんだ。だが、妙なことはそればかりじゃなかった。というのは、俺の好奇心を、二銭銅貨そのものよりも、もっと挑発した所の、一枚の紙切がその中から出て来たんだ。それはこれだ」

実は、この仕掛けには元ネタがあります。
乱歩関係の評論などを読んでいても、この点に言及されているのを見たことがなかったため、元ネタがあったとは全く知らず、たまたま出くわしたときには非常に驚きました。

その元ネタというのは、日本では「ああ無情」のタイトルで知られるビクトル・ユーゴーの代表作「レ・ミゼラブル」です。
この作品の第三部「マリユス」第八編「邪悪なる貧民」第二十章「待ち伏せ」に以下のような記述があります。(豊島与志雄訳・青空文庫より)
ゴルボー屋敷におけるこの待ち伏せの後に間もなく行なわれた裁判所の調査によれば、二つに切り割って特殊な細工を施した大きな一スー銅貨が、臨検の警官によってその屋根部屋やねべやの中に見い出されたのだった。その大きな銅貨は、徒刑場の気長い仕事によって暗黒な用途のために暗黒の中で作り出される驚くべき手工品の一つであり、破獄の道具にほかならない驚くべき品物の一つだった。異常な技術に成ったそれらの恐るべき微妙な作品が宝石細工に対する関係は、あたかも怪しい隠語の比喩ひゆが詩に対する関係と同じである。言語のうちにヴィヨンのごとき詩人らがあると同じく、徒刑場のうちにはベンヴェヌート・チェリーニのごとき金工らがおる。自由にあこがれてる不幸な囚人は、時とすると別に道具がなくても、包丁や古ナイフなどで、二枚の薄い片に一スー銅貨を切り割り、貨幣の面には少しもきずがつかないように両片をくりぬき、その縁に螺旋条らせんじょうをつけて、また両片がうまく合わさるようにこしらえることがある。それは自由にねじ合わせたりねじあけたりできるもので、一つの箱となっている。箱の中には時計の撥条ぜんまいが隠されている。そしてその撥条をうまく加工すると、大きな鎖でも鉄の格子こうしでも切ることができる。その不幸な囚徒はただ一スー銅貨しか持っていないように思われるが、実は自由を所有してるのである。ところで、後に警察の方で捜索をした時、その部屋へやの窓に近い寝台の下で見いだされた、二つの片に開かれてる大きな一スー銅貨は、そういう種類のものであった。
ご覧のとおり、ここに出てくる「一スー銅貨」には、乱歩の「二銭銅貨」と全く同じ細工が施してあります。
そして、乱歩と「レ・ミゼラブル」といえば、当然連想されるのは、黒岩涙香による翻案「噫無情」です。涙香は、該当箇所をどのように訳したでしょうか。九十九章「陥穽 七」に以下の記述があります。(はる書房『噫無情』後篇より)
縄を切るのは、特別に其の術が有るのだ、是れは多年牢屋の中に居て、 囚人の學問を卒業した人で無くては知らぬ、白翁が繩を切たは、 其の術を心得て居たに違ひ無い、其の次第は後で分つた、 此のち警察で取調べたとき、此家の番人が警察署へ一の參考品を差出した、其れは此室に落て居たと云ふので、一個の二錢銅貨である、銅貨の中へ、繩でも木でも或は鐵をでも切る鋭い刄物を隱すのが、囚人の術なんだ。
見た所は一枚の銅貨だけれど、實は二枚を合せた者だ、一枚は其の裏を摺り減し、一枚は其の表を摺り減し、二枚ともに半枚の薄さと爲して之を合せて丁度一枚の銅貨が出來る、其の合せ目は、上の一枚を雄旋とし下の一枚を雌旋として、容易に開ぬ樣に堅密に旋合せて有る、凡そ世に是れほど精巧な細工は少い、けれど長く牢に居る囚人の中には此細工を覺える者が隨分ある、爾して上の一枚と下の一枚との間を抉り、空虚と爲して其の所へ時計の發條を入れて有る、云はゞ銅貨の錫を藥入れの樣に作り其の中へ凶器を隱すのだ、時計の發條が凶器なんだ、昔しから囚人の中には、針一本あれば歐羅巴の何の樣な獄をでも破ると斷言した程の者も有る、時計の發條は鍛へ抜た鐵だから、之に刄はを附ければ、刄物にも鋸にも鑢にも代用が出來る、場合に依りては人を殺すことも出來ぬとは限らぬ、老巧な囚人に取ては凶器の上の凶器なんだ。
ビンゴ!というわけで、「二銭銅貨」が出てきました。乱歩はこの記述を参考にしたものと思われます。「牢破りの名人」「時計のゼンマイ」というキーワードが全てに共通し、また、涙香が「薬入れ」と書き、乱歩が「宝丹の容器」と書いている点でも、間違いないでしょう。
ここまで同じ表現をしているということは、乱歩には引用元を隠す意図はなかったのではないかとも思われます。
ちなみに実際に流通していた2銭銅貨は、発行時期は明治6年から明治17年と短かったものの、昭和28年まで通貨として使用できたものであり、涙香も乱歩も同じ銅貨を指しています。

「二銭銅貨」も「レ・ミゼラブル」も「噫無情」も、いずれも非常に有名な作品なのに、誰も気づいていないのか、あるいは実際にはよく知られていることなのか、いずれにしてもほとんど語られていないのが不思議なのですが、ここでご紹介しておきたいと思います。


「レ・ミゼラブル」原作を読むなら、おすすめの文庫はどれ? 各社版徹底比較!

日本では「ああ無情」のタイトルで知られ、子ども向けの名作全集などには必ず収録されるユゴーの「レ・ミゼラブル」。完訳に挑戦しようと思うと、何種類かの文庫が出ており、どれを手に取ろうか迷われるのではないでしょうか。それぞれの訳の特色をまとめてみます。

「レ・ミゼラブル」はフランスの小説家ヴィクトル・ユゴーが19世紀半ばに執筆した大長編です。
貧しさのあまりパンを盗んだジャン・バルジャンが、ミリエル神父との出会いで改心して……と、子ども向けの抄訳などではこの辺のヒューマニズムの部分のみが強調されていたりしますが、全て読んでみると、サスペンスあり、アクションありのエンタテインメントで、退屈することなく読み切ることができます。ただし、一部を除いては。
「一部を除いて」というのは、これは「ノートル=ダム・ド・パリ」など、他の小説にも見られるユゴーの悪癖で、本筋と関係のない歴史や風俗について延々と語り続けている部分があるのです。
例えば、主要登場人物2人が出会うのがワーテルローの戦いのさなかなのですが、それだけのことを書くために、ユゴーが古戦跡を訪れて抱いた感慨から始まり、おもむろに百ページくらい費やして戦いの詳細を綴っていきます。読んでいると、明らかに伏線でもなんでもなく、本筋と全く関係ないことがわかります。
ストーリーを求める読者には退屈極まる部分ですが、しかしユゴーは「これは物語の作者の権利である」と傲然と言い放つのです。
全5部からなりますが、各部の冒頭にこのような文章が入っています。筆者は、この辺はすっ飛ばして読みました。

というわけで、現在入手可能な文庫についてご紹介していきましょう。

岩波文庫版 豊島与志雄・訳


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岩波文庫からは豊島与志雄訳が全4冊で刊行されています。
名訳として読み継がれている豊島訳ですが、最初に刊行されたのは大正期で、さすがに文体の古さは否定できません。(とはいえ、同時代に刊行された他の翻訳家による海外文学と比べれば、圧倒的に読みやすいのですが)
どれくらい古いか?ということを読んでみたければ、実は豊島訳の「レ・ミゼラブル」はまるまる青空文庫にも収録されています。豊島与志雄が亡くなったのがもう60年以上も前なので、訳文の著作権が切れているのです。
というわけで、敢えて豊島訳を読みたい、ということでなければ他の文庫をおすすめしますが、一つ、岩波文庫版には他にない大きな長所があります。それは、挿絵を全て収録していることです。
ミュージカルのポスターにも使用されている少女コゼットのイラストなど、「レ・ミゼラブル」の挿絵は有名であり、作品理解の助けにもなりますが、他の文庫では収録されていません。
ついでに言うと、全巻揃えて最もお安いのも岩波文庫版です。

新潮文庫版 佐藤朔・訳


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新潮文庫版は佐藤朔の訳で全5冊で出ています。
かなり昔から刊行されており、日本では最もよく読まれているスタンダードな訳と言えるでしょう。
ただし、初訳は50年以上前であり、岩波文庫版よりははるかに新しいものの、新訳というわけではありません。また、挿絵もありません。
手に入りやすく、価格も手頃で読みやすい、定番のバージョンです。

ちくま文庫版 西永良成・訳


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ちくま文庫版は最も新しい訳で、2012年から2014年にかけて全5冊で刊行されました。
筆者はこれで読んだのですが、なぜ完結までに足掛け2年もかかったのか? 事情は特に明らかにされていないのですが、おそらくは訳者の体調不良か何かで、4巻と5巻とのあいだが1年も空いてしまったのです。
順調にスイスイ読んでいた筆者には、この1年は長いものでした。新訳に手を出さず、新潮文庫で読めば良かった、と思ったものです。とはいえ、無事に完結してくれたのでホッとしました。
さすがに最新訳だけあって、文体も読みやすく、注釈も適切に挿入されており、おすすめできます。
難点は、他の文庫に比べてずいぶんとお高いという点ですが、そもそも高価格で有名な、ちくま文庫のファンである筆者にとっては、そこはあまり問題になりませんでした。
これで挿絵が入っていたら本当に完璧なバージョンになるのですが、挿絵は入っていません。
(2018年追記:どうやらちくま文庫版は初刷のみで品切れになってしまったようで、現時点では古本しか入手できません)

角川文庫版 永山 篤一 ・訳

レ・ミゼラブル (上) (角川文庫)
レ・ミゼラブル (下) (角川文庫)

(リンク先はいずれもAmazon)

角川文庫版は完訳ではなく、上下2冊の抄訳です。
本記事の冒頭に書いたとおり、ユゴーの小説は余計な部分が多いため、完訳にこだわらず、抄訳で済ませるのも決して悪くはない選択肢です。実際、ミュージカル版が映画化されたとき、最も売れていたのは角川文庫版でした。
筆者は読んでいないので、どの程度はしょっているのか正確にわかりませんが、パラパラと眺めた印象では、大事なところはきちんと残していますので、ストーリーの全体を追うには不足は無いように思いました。

おまけ 鹿島茂『「レ・ミゼラブル」百六景』(文春文庫)


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さて、岩波文庫以外の文庫には挿絵はついていないのですが、それを補うのにうってつけの本が鹿島茂の『「レ・ミゼラブル」百六景』です。
挿絵の中から百六枚を選び、該当シーンの簡単なあらすじを付したもので、完訳を読みながら手元に置いておくと、挿絵によって読解が助けられ、また忘れかけている前の方のエピソードをすぐに確認できますし、さらに鹿島教授の軽妙な解説で作品理解が深まります。
挿絵全点を収録しているわけではないのですが、岩波文庫版の古い訳には抵抗があるが、挿絵と一緒に作品を楽しみたい、という方にはオススメです。

黒岩涙香『噫無情』

最後に、こちらをご紹介しましょう。


(リンク先はいずれもAmazon)

以前の「モンテ・クリスト伯」の記事の際にも、涙香の「巖窟王」を紹介しましたが、「レ・ミゼラブル」が日本で「ああ無情」のタイトルで知られるようになったのは、明治時代に黒岩涙香が「噫無情」というタイトルで翻案したためです。
「噫無情」は、完訳ではありませんが、冒頭にも書いたような余計な部分はバッサリ切っていますので、内容的にはわかりやすく書き直しています。
とはいえ、明治時代の文章なので、決して読みやすくはありません。
また、登場人物名が日本風に置き換えられ、「戎瓦戎(ジャン・バルジャン)」「蛇兵太(ジャベール)」「手鳴田(テナルディエ)」「小雪(コゼット)」「花子(ファンティーヌ)」という具合になっています。この辺までは良いのですが、エポニーヌが「疣子」、アゼルマが「痣子」というのは、絶妙というか、無茶というか……
まあ、いろいろ話の種にはなりますので、ご興味のある方は原作を読んだ上で挑戦してみてはいかがでしょうか。

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「二銭銅貨」と「レ・ミゼラブル」
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筆者:squibbon
幼稚園児の頃から40を過ぎた現在に至るまで読書が趣味。学生時代は読書系のサークルに所属し、現在も出版業界の片隅で禄を食んでいます。
好きな作家:江戸川乱歩、横溝正史、都筑道夫、泡坂妻夫、筒井康隆、山田風太郎、吉村昭。好きな音楽:筋肉少女帯、中島みゆき。好きな映画:笠原和夫、黒澤明、野村芳太郎、クエンティン・タランティーノ、ティム・バートン、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャー。
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