201807頼介伝240

本書は、大正末期から昭和にかけて神戸で活動した起業家・松原頼介の評伝です。
……と紹介すると、ほとんどの方は「そんな人、知らない」ということで全く興味がわかないと思いますので、急いで書いておきます。本書は以下のような方には間違いなくおすすめです。

・神戸の歴史に関心がある。
・面白いノンフィクションを読みたい。
・著者の旧著「書庫を建てる」を読んで、著者の祖父・松原頼介に興味を持った。あるいは、本の雑誌社「絶景本棚」に掲載された著者の書庫に据えられた仏壇が気になっていた。

さて、ひとつずつご説明する前に、筆者がなぜこのような無名の起業家について書かれた本を購入したのかを書いておきます。

著者の松原隆一郎氏は経済学の先生です。経済学と全く縁のない人生を送ってきた筆者は、白状すれば著者が本業で書かれた本を一冊も読んだことがないのですが、4年ほど前に新潮社から出た「書庫を建てる」はとても興味深い本でした。
1万冊の蔵書と祖父の仏壇を収納するために建築家・堀部安嗣氏に設計を依頼して書庫を建てる。
螺旋状に塔のような本棚が組まれ、その中央に仏壇が据えられた写真が強烈な印象を残す本で、本好きなら間違いなく楽しめる本です。



この書庫建設にかかる費用はは祖父が残した遺産を活用して賄ったということで、冒頭2章を費やして祖父・頼介および松原家の来歴が語られます。
あらためて白状すると、筆者はこの本を読んだとき、その部分はサラッと眺めただけで読み飛ばしていました。興味があったのは「書庫を建てる」部分だけで、いったいなんでお祖父さんの話を延々読まなければいけないのか、よくわからなかったためです。

したがって、今回の「頼介伝」が刊行されたときも、「書庫を建てる」の著者、ということはもちろんすぐにわかりますが、そこで語られていた祖父、つまりの仏壇に祀られた本人の話だとは、まるで気づきませんでした。
にもかかわらず購入したのは、装丁とタイトルが異常にかっこよかったから。
本好きの方ならわかると思いますが、やはり面白い本というのは装丁とタイトルがかっこいいんですよ。「これは間違いないな」ということがビンビンと伝わってくる表紙です。
よく見れば、この表紙に使われている写真は「書庫を建てる」にも掲載されていたものですが、それには気づかず買ってきました。

そして表紙以外にも、もう一つのポイント。それは神戸関連本だということ。
筆者は結婚して子どもも生まれてから神戸へ移り住んだため、神戸市民でありながら街の地理・歴史・文化に全く疎い状態で暮らしています。(もともと関西人ですらないので)
そんなわけで、神戸について書かれた面白そうな本を見かけるとちょこちょこと読んでいるのですが、本書はその点でとても満足できる内容でした。

神戸というと、六甲山麓に広がる高級住宅街の印象が強くありますが、その一方には兵庫・長田周辺の工業地域やその周辺の下町があります。
当ブログをご覧いただけばおわかりのとおり、筆者は横溝正史の熱狂的なファンですが、横溝の生誕地は川崎造船所前の東川崎で、自伝的エッセイを読んでいると、山手とは全く雰囲気の異なる、荒くれ者が多い土地柄だったことがわかります。
そして、「頼介伝」の主人公・松原頼介が最初に起業したのも、東川崎に隣接した東出町でした。
しかも、その時期にはまだ横溝は上京しておらず、目と鼻の先で暮らしていたというわけです。
それだけではありません。やはり隣接した西出町で山口組初代が組を結成したのもほぼ同じ頃。さらには少年だった中内功や東山魁夷までが、同時期にこの狭い地域のなかにいたということなのです。
いったいこれはナニゴトなのか。
「頼介伝」では、港町神戸の発展、工業地帯の成長とそれに伴う爆発的な人口の増加、湊川の付け替えに伴って出現した新開地の繁栄などが、横溝正史のエッセイ、山口組の出現などを絡めながら詳細に語られます。
これまで横溝正史のエッセイを読んでいても、いまいち情景がわからなかった筆者にとっては、この地域の異常な発展ぶりがよくわかったというだけでも読んで良かった、と思えるものでした。

話がそれますが、東川崎や東出町周辺は、一度だけ散策したことがあります。
横溝正史生誕地であることを示す碑が立っていますが、目的はそれではなく、数年前、神戸市営地下鉄が実施していたスタンプラリーに、当時幼稚園児だった息子と一緒に参加したことがあるのです。
ポイントの一つが稲荷市場を抜けた松尾稲荷神社境内に設置されていました。
このとき、初めて稲荷市場に足を踏み入れたのですが、日曜の昼間というのに周囲にはほとんど人影はなく(正確に言えば、ほかのスタンプラリー参加者はちらほら見かけました……)、アーケードのある商店街はシャッターがおりているどころか、あちこちが歯抜けのように更地になっており、20年も昔の「祝・オリックス優勝」の横断幕が掲げられたままになっていました。
恐るべき寂れっぷりで、息子も「なんだか気味の悪いところだなあ」とつぶやきながら歩いていましたが、帰宅後に調べると、阪神大震災で受けたダメージからそのまま立ち直れないままだったのだということを知りました。
このアーケードは最近になって撤去され、ようやく再開発が始まったようですが、あの場所が本書冒頭の舞台地であり、横溝正史の故郷でもある活気のある街だったというのは信じられない思いです。

話を戻しますと、松原頼介はこの地域で最初の旗揚げをし、それが成功すると住吉川沿いに居を移します。
今度は一転して、神戸の中でも超のつく高級住宅街です。近所には谷崎潤一郎が住み、この地を舞台に「細雪」を執筆していました。一家の生活も、まさに「細雪」で、阪神間モダニズムを満喫するわけです。
ここでも、著者は阪神間の住宅街発展の歴史を詳細に綴ります。これまた、そのあたりに疎い筆者には非常に興味深い内容でした。
神戸という街の近代史は、本書一冊でおおよそ語り尽くされているといって良いでしょう。

さて、では主人公・頼介はいったい何の事業をしていたのか。防水シートの製造や海運、鉄鋼業と時期によって事業の内容はいくつか変わるのですが、これが見事なまでに大正末期から昭和にかけての日本近現代史とリンクしているのです。
満洲の開発、敗戦、戦後の朝鮮戦争特需、そして高度経済成長期。
ここは経済学者の本領発揮で、細かいデータを交えながら時代背景をおさらいしてもらえます。
さらには、事業の浮沈がいちいちそれらと関連して語られており、読み物としてもよくできています。

読み物として面白い、といえばノンフィクションとして読んでも秀逸です。
松原頼介という人物の来歴を詳細に知りたいという欲求がない読者でも、祖父にかんするありとあらゆる情報を手に入れたいという著者の情熱には注目せざるを得ません。
関係者を尋ね回り、残された記録を丹念にたどる中で、次々と新たな発見がされていきます。この辺、筆者としては探偵小説的な面白さというより、「探偵ナイトスクープ」的な興奮を感じました。

本書を読み終わってから、改めて「書庫を建てる」を読み返すと、以前は余分だと思っていた冒頭2章が、実はとても重要だったことがわかります。新築書庫の真ん中に仏壇を置いてしまうくらいに。

というわけで、冒頭にも書いたとおり
・神戸の歴史に関心がある。
・面白いノンフィクションを読みたい。
・著者の旧著「書庫を建てる」を読んで、著者の祖父・松原頼介に興味を持った。あるいは、本の雑誌社「絶景本棚」に掲載された著者の書庫に据えられた仏壇が気になっていた。
という方には、おすすめの一冊です。


 


関連コンテンツ