201708白鯨109

非常に名高いメルヴィルの「白鯨」ですが、この小説はなかなか読破できないことでも、また有名です。
ところが! 筆者は意外とサクサクと読み終えることができました。筆者は実は海外文学は苦手で、特に長い小説となると、綿密な作戦を練った上で取り掛からないと、途中で挫折することがけっこうあります。「白鯨」に関しては、事前のリサーチが功を奏して、無事に最後まで読めました。

今回の記事では「いかにしてサクサクと白鯨を読み終えたか」を語ってみたいと思います。

世の中には予備知識がない状態で読んだほうが面白い小説もたくさんありますが、「白鯨」については、それは当てはまりません。読み始める前に、これがどんな小説なのか、概要を知っておかねば、間違いなく読み始めてすぐに放棄することになります。

筆者は「白鯨」という小説についてはずっと「己の片脚を食いちぎった白い巨鯨を追う老船長の物語」というよく耳にするあらすじから、「宝島」「老人と海」それに「ジョーズ」をくっつけような話だとばかり思っていました。
筆者以外にもそんな風に、血湧き肉躍る海洋冒険小説にして骨太の人間ドラマだと思いこんでいる方がいるかも知れませんが、全然違いますので、ご注意ください。

では、どんな小説なのかといえば、筆者の印象では小栗虫太郎「黒死館殺人事件」や筒井康隆「虚航船団」などと並べて語るのがふさわしい「奇書」です。
そのように聞いて、読む気になるか、やめておく気になるか、人それぞれだと思いますが、ただし、それくらい覚悟をしておくだけで、読破率は上がるのではないかと思います。

ともかく、むちゃくちゃな小説です。
文庫で2~3冊にもなる大長編ですが、「ストーリー」と言えるような部分は全体の2割くらいです。では、あとの8割はどうなっているのかといえば、クジラという生物や捕鯨に関する博物学的・文学的な蘊蓄を延々綴っているのです。
しかも、それを聖書やギリシア神話、歴史的故事からの引用・比喩・象徴を散りばめた文体で語ります。
ボンヤリしていると、何を読まされているのかサッパリわからなくなってきます。
(この辺が「黒死館殺人事件」っぽいな、と)

さらにストーリーも異常です。
隻脚の船長エイハブは、完全に狂気にとらわれています。
彼の航海の目的は捕鯨ではなく、ただ復讐のみです。船員たちが「ちゃんとクジラを捕まえて儲けたい」「せめて生きて家に帰りたい」と訴えても全て却下。3ページくらいにわたって滔々と自身の復讐の大義を語りますが、何を喋っているのかまるでわからない演説です。
ほかの登場人物たちも狂っています。
本書の語り手イシュメールは、語り手でありながら非常に影が薄いのですが、親友クイークェグは元人食い人種という設定です。冒頭にこの二人がホモセクシュアルな関係であることを示唆するエピソードが置かれていますが、この辺の設定、ほぼストーリーには絡みません。
当時の捕鯨は、本船から捕鯨ボートを降ろして、クジラへ近づき、銛を打ち込んでいましたが、船にはエイハブ専用の捕鯨ボートが備え付けられ、そのボートを操る専門チームとして甲板下に拝火教徒が潜んでいます。この存在は、他の船員には知らされないまま、エイハブがこっそりと連れてきており、彼らの前に初めて白鯨が姿を表わすと、突如としてこの一団も登場するのです。
というわけで、人種や宗教がごちゃ混ぜの軍団は、騒動を巻き起こしつつ、エイハブの狂気に引きづられ、望んでもいない白鯨との闘いになだれこんでいくというのが、メインストーリーなのです。
(この辺が「虚航船団」っぽいな、と)

さて、この「象徴性に満ちた〈知的ごった煮〉」(岩波文庫の紹介文)をどの文庫で読破するか。
「白鯨」を読破するためには、訳本の選択も重要です。

岩波文庫・八木敏雄訳(2004年)
白鯨 上 (岩波文庫)
白鯨 中 (岩波文庫)
白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)




筆者は今のところの最新訳である岩波文庫版で読みましたが、これは最高に読みやすい本です。
前述の通りの異常な内容について、なんとか読者に理解させようと注釈・図版・登場人物紹介など工夫しており、いや工夫にとどまらない、訳者の情熱を感じます。筆者のように根性のない人間でも楽しく読み通すことができました。
ともかく、途中で諦めずに最後まで読みたいと考えている方には、おすすめです。
ただし、3分冊となっているうえ、一冊ずつが高いため、新潮文庫・角川文庫の倍くらいの値段になります。
また、他の訳本と比べると文章も読みやすく整理されています。
これはもちろんメリットではあるのですが、ただし、この作品に限っていえば、原文はかなり難解な単語を使っていて読みづらいことで知られています。
モームの「世界の十大小説」によれば「いかめしく聞こえる言い廻しを好んで使った」「堂々とした言葉を使って、しばしばきわめて美しい効果をあげるのに成功している」「古めかしい単語や韻文にだけ許される単語を妙に好んだ」などと評されています。
このような小説が、サクサク読める文章になってしまっていることに、あるいは違和感を持つ読者もあるかもしれません。
そんな方には、次の講談社文芸文庫版をおすすめします。

講談社文芸文庫・千石英世訳(2000年)
白鯨 モービィ・ディック 上 (講談社文芸文庫)
白鯨 モービィ・ディック 下 (講談社文芸文庫)



2000年に刊行され、比較的新しい本ですが、名訳とされています。
岩波文庫版に比べると文章は「いかめしく」「堂々とした言葉」になるよう工夫されています。また、岩波文庫版に劣らず、注釈も豊富です。
ただし、値段は岩波文庫版よりさらに高く、上下揃えると4000円を超えるという文庫本と思えない価格設定です。また、めったに重版しないようで、市場在庫が切れていることが多く、なかなか入手困難な本でもあります。
ちなみに、筆者の妻は難解だろうが長大だろうが、どんな本でも読み始めたら途中でやめないというポリシーを持っており、筆者がとても読む気になれないような難しい本を平気で読破しまくっている人ですが、「白鯨」については学生時代、この講談社文芸文庫版に挑戦して途中で挫折したそうです。
内容が難解なだけに、文章まで難しくなると、本当にわけがわからなくなるようです。

なお、岩波文庫・講談社文芸文庫には、有名なロックウェル・ケントの挿絵(版画)が使われています。
ただし、いずれも全ての挿絵が収録されているわけではないようで、岩波版に無い挿絵が講談社版に載っていたり、またその逆もあったりします。すばらしい絵ばかりですが、全部収録した画集って無いんでしょうか。

角川文庫・富田彬訳(1956年)
白鯨 (上) (角川文庫)
白鯨 (下) (角川文庫)



新潮文庫・田中西二郎訳(1950年)

白鯨 (上) (新潮文庫 (メ-2-1))
白鯨 (下) (新潮文庫 (メ-2-2))




さて、新潮文庫・角川文庫は、岩波文庫・講談社学芸文庫に比べるとかなり古い訳です。
注釈はそれなりについていますが、岩波・講談社よりも読破のための根性は必要になるかと思います。

ただ、新潮文庫版はパラパラ眺めただけの印象なのですが、かなり自由奔放な訳文で、もしかするとメルヴィルの原文の味わいを最も再現しているのはこの本なのでは、という気もします。
岩波文庫版で全体像を頭に入れた上で、新潮文庫版に改めて挑戦すると、これはこれで楽しい読書体験ができるかもしれない、と考えています。
なお、新潮文庫・角川文庫は価格も安く、上下揃えても講談社文芸文庫の一冊分にも及びません。また、そこそこの規模の本屋であれば間違いなく在庫を置いているという入手しやすさもメリットとしてあるかと思います。

そんなわけで、各訳本の印象をまとめると以下のようになるでしょうか。
岩波文庫……読破を目標にするなら最強。ただし、原文の持ち味がやや薄まっている面もある。挿絵あり。
講談社文芸文庫……原文の味わいを残そうと文章を工夫している。ただし、べらぼうに高いうえに、本屋であまり見かけない。挿絵あり。
角川文庫……どこの本屋でも置いていることだけがメリット。価格も一番安い。文章は読みづらく、注釈もほかより少なめ。挿絵なし。
新潮文庫……これもどこの本屋でも置いている。価格も角川版とほぼ同レベル。文章は独特な言い回しが多く、これはこれで興味をそそられるが、初読ではかなり苦労すると思われる。注釈は角川版より多め。挿絵なし。


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